翻刻
【右頁上段】
大内(おほち)左京(さきやうの)大夫(だいふ)義弘(よしひろ)は従四位(じゆしゐ)上
に任(にん)じ周防(すはう)長門(ながと)豊前(ぶぜん)石見(いはみ)四ヶ
二年 内野(うちの)合戦(かつせん)にめさましき功名(こうめう)
を現(あらは)せしによのその勧賞(かんしやう)に和泉(いづみ)
紀伊(きい)にも領地(れうち)を給はり同三年
南北朝(なんぼくてう)の御 和睦(わぼく)を調(とゝの)へ皇孫(こうそん)一
統(とう)のことをはかり五十六年の間(あいだ)の
鉾楯(むじゆん)をとり結(むす)び南帝(なんてい)を嵯峨(さが)
大覚寺(だいかくじ)にうつし奉り三種(しゅ)の神宝(しんほう)
を再(ふたゝ)び京都へ帰入(きにう)し奉る此賞(しやう)
に豊前(ぶぜんの)国(くに)を給はり従上(じゆしゃう)となる和歌を
よくして新拾遺(しんしうゐ)に入ル應安(おうあん)五年今
川了俊(れうしゆん)九州 探題(たんだい)として下向の時菊(きく)
地(ち)以下(いか)の南朝方 了俊(れうしゆん)を討(うた)んとせし
を義弘 加勢(かせい)して是を救ひ富(とみ)極く
奢侈(しやし)となり天道 満(みつ)るを缺(かく)の道理(どうり)
なる歟(か)應永(おうえい)六年何の故もなきに謀(む)
反(ほん)を企(くはだ)て堺浦(さかいうら)合戦(かつせん)に戦死(せんし)す
【右頁下段】
さなへかな
袖(そで)にもとる
ほさぬ
に
雨(だれ)
月(み)
五(さ)
早田(わさだ)の
ふるの
ひかずのみ
大内介(おほちのすけ)義弘(よしひろ)
【左頁上段】
篠川(しのかは)右衛門督(ゑもんのかみ)持仲(もちなか)は鎌倉(かまくら)新御堂’(しんみどう)
満隆(みつたか)の子(こ)なり応永(おうえい)廿三年 前(さき)の執(しつ)
事(じ)上杉 氏憲(うじのり)入道 犬懸(いぬかけ)禅秀(ぜんしう)管領(くわんれい)
持氏(もちうぢ)の不興(ふけい)を蒙(かうふ)りて蟄居(ちつきよ)してゐたり
しが持氏の仁恵(じんけい)なきを恨(うら)み持氏の
舎弟(しやてい)満隆(みつたか)をすゝめ逆意(ぎやくい)を企(くはだ)て
関(くわん)八州へ早馬(はやうま)を走(はせ)て味方(みかた)を集(あつむ)るに
直(たゞち)に十万 余(よ)の勢 集(つど)ふこれ執事(しつじ)の
判物(はんもつ)にては急(きう)に走付(はせつく)べき法(ほう)あるが
ゆゑ也此大 軍(ぐん)にて持氏の御所(ごしよ)を夜中(やちう)
に取囲(とりかこ)む持氏 忍(しの)びて豆州(づしう)走湯(そうとう)山へ
遁(のが)れ此 由(よし)京都へ注進(ちうしん)しければ将軍ゟ
関東(くわんとう)の武士へ御教書(みぎやうしよ)を給はりければ即(そく)
時(じ)に大軍 集(あつま)り犬懸(いぬかけ)と新御堂(しんみどう)を攻め
けるに防(ふせぐ)ことあたはず禅秀(ぜんしう)親子 滅亡(めつぼう)に
及び満隆(みつたか)も自害(じがい)し給ひければ持仲は
此 謀反(むほん)の企(くはだ)てはしり給はねど残(のこり)とゞまる
べきにあらねば最期(さいご)の辞世(じせい)にこの哥
をのこし腹(はら)かき切(きつ)てはて給ひぬ
【左頁下段】
篠川(しのかは)持仲(もちなか)
咲(さく)く時(とき)は
花(はな)の
数(かず)
には
入ら
ねども
散(ちる)には
もろき
山桜(やまさくら)かな