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前(まへ)に在(ある)かと見れば忽焉(こつえん)として後(しりへ)に廻(まは)り。左(ひだり)に在(ある)かと見れば忽(たちま)ち右(みぎ)に出(いで)。其(その)疾(はや)き事
蝶(てふ)鳥(とり)のごとくなれば。蹶速(けはや)さらに見(み)留(とむ)る事 能(あた)はず。弥(いよ〳〵)精神(せいしん)疲(つか)れ呼吸(いきざし)已(すで)に早鐘(はやがね)
を撞(つく)が如(ごと)し。宿祢(すくね)は蹶速(けはや)が力(ちから)の撓(たゆみ)しを察(さつ)して。一 点(てん)の透間(すきま)を付入(つけこみ)総身(そうしん)の力(ちから)を
腕(うで)に入(いれ)大喝(たいかつ)一声(いつせい)曳(えい)やと言(いひ)さま蹶速(けはや)が胸板(むないた)を噇(どう)ど衝(つき)ければ。さしもの大の漢(をのこ)屏風(べうぶ)
を倒(たを)すがごとく仰(のけ)さまに噹(はた)と仆(たをれ)けるを。宿祢(すくね)は透(すか)さず走(はしり)かゝり。力(ちから)脚(あし)を揚(あげ)て蹶速(けはや)
が肋骨(あばらぼね)を続(つゞけ)さまに蹴(ける)事(こと)四五 脚(きやく)。然(しか)のみならず敵(てき)の胸板(むないた)を臨(のぞ)み磐石(ばんじやく)も碓(くだけ)よと
力(ちから)を究(きはめ)て噇々(どう〳〵)と踏(ふみ)ければ。何(なに)かは以(もつ)て堪(こらふ)べき。蹶速(けはや)は胸骨(むなぼね)肋骨(あばらぼね)を踏折(ふみをら)れ叫(さけ)び苦(くる)
しみ目(め)口(くち)より鮮血(なまち)を吐(はい)て手脚(てあし)を張(はり)其儘(そのまゝ)息(いき)は絶(たへ)にける。是(これ)を見て堂上(どうせう)堂下(どうか)の
公卿(こうけい)大夫(たいふ)下宦(したづかさ)にいたる迄(まで)。したりやしたりと誉(ほむ)る声(こゑ)遠近(ゑんきん)に震(ふる)ひて少時(しばし)は鳴(なり)も止(やま)
ず下郎(げらう)の輩(ともがら)は日来(ひごろ)悪(にく)しとおもふ蹶速(けはや)が負(まけ)たるを嬉(うれし)みて庭上(ていせう)に躍(おどり)舞(まふ)もあり。其(その)
屍(むくろ)の際(きは)へ走寄(はせよつ)て土砂(どしや)を蹴(け)かくるもあり。唾(つ)を吐(はき)かくるも多(おほ)かりけり。宿祢(すくね)は念願(ねんぐわん)の如(ごとく)