翻刻
【右丁】
御陣にしたかひ常に近くめしつかはる其子民部少輔忠澄
慶長四年中納言殿の《割書:大相国家|の御事》御前にて元服し御諱字
を給り甚十郎と召れ大坂の軍の時御使番をうけたまはり
みつから戦て首うつて献る其後御目付より普請奉行
を暦て寛永十五年五月大目付となつて同十七年六月
十二日職免され明れは十八年五十六歳にして卒す
《割書:所領九千五百|石にいたるなり》直澄はしめ寛永八年叙爵し同十年八月
五日御扈従組の組頭になつて十五年十二月五日同き
番頭にのほり慶安三年十一月十九日御書院番頭に移る
承応四年九月十五日大番の頭にうつる寛文元年十一月
【左丁】
九日自寺社奉行職に補せられ《割書:此時一万石|を領せし也》同八年十二月
廿六日所領加らる《割書:三千|石》十年十二月十一日御不審かう
ふる事有て職ゆるされて蟄居す其後御免蒙つて
出仕しけるか延宝七年六月十八日致仕す《割書:直澄御不審|かうふりし》
《割書:事は十二月十八日評定衆臨時の会合ありし時松平因幡守信興を|御使として御菓子賜て寒天の出仕を労せらる人々皆かしこまり》
《割書:申せしに直澄は疲労のあまりにや坐なからうち睡て仰をも承らす|此事御聴に奉せしに直澄評定のたひにかくうちねふりてさふらふ》
《割書:よしきこえしかは不敵のつみまぬかれかたしといへとも近来奉公の噂仰|出されて籠りて 候へしとありしかは蟄居したりし》
嫡男信濃守直輔廿二歳にて万治三年十一月廿四日
卒しけれは外甥を養て嗣とす土佐守直清実是
石川播磨守総長か二男外叔父直澄か世嗣となる《割書:一万三|千石》