翻刻
くかたるをねめ介さゝやきてむさとしたる事な仰(おほせ)て。あの
武士(もののふ)は平(たいら)の忠盛(たゞもり)こなたは当社(とうしや)の承仕法師(じやうじほうし)。昔(むかし)白河(しらかは)の院(ゐん)
の御しのひの御幸(みゆき)ありし時。かう〳〵の事ありて抱(だき)とめたる
図画(づぐわ)とこそ申候へ。ようにも人の聞(きく)物をといへば。筍斎(しゆんさい)ぬから
ぬがほで。まことにいかにもこなたは忠(たゞ)もり。されば上(うへ)なき酒
のみにてありしと。あるふみに
今(ま)一 杯(はい)たゞもりたらぬさるへいじくだけて物を思ふかはらけ
と口かしこくいひて立のけば。ねめ介も腹(はら)かゝへ行(ゆく)。南(みなみ)にいてゝ
石の鳥居(とりゐ)。左(ひだり)につゞきて双林寺(さうりんじ)高台寺(かうだいし)右に歩(あゆみ)て安井(やすい)の御
堂(どう)に入 藤(ふぢ)杜若(かきつばた)はまだ色(いろ)なくて。さくらは雲(くも)とあらそふ。筍(じゆん)さ
い。まづ火桜(ひざくら)によりてたばこたうべんといへば。ねめ介しほ
がまにむかひて。せんじ茶(ちや)ひとつといへど花(はな)ものいはず笑(わらひ)も
せず。爰(こゝ)を見 過(すぐ)して。庚申堂(かうしんとう)に出。三 申(じん)のあかき顔(かほ)に
酒のなつかしさ添(そへ)。つみつくる折しも。左右(ひたりみぎ)のすだれより。な
まめける女の我しりがほにさしまね〱に。おもほえず風に
なび〱ふじやといふのんれんの内に入ぬ。あるじの女 房(ほゞう)傍(そば)へ
ゐよりてお雪お茶しんじましやといふもにくからず。富士(ふじ)に
雪心ありげなる名(な)にこそあれと思へば。くゆるきせるのけふり
迄(まで)よそに替(かは)りておもしろう立行は。我心のうかるゝゆへに
や御 茶(ちや)あがりませとさし出す茶(ちや)はふるし水たうべんと
いへば。扨 気精(きじやう)のつよひ事かなといふ〳〵もて来(く)る。波間(なみま)にかづ
〳〵あまならで天目(てんもく)引うけいきもつぎあへすのみて