翻刻
二
○ 会員豊田珍彦蔵本。
吉田藩士尾崎氏が天保十五年冬に写したものを明治三十三年六月・日吉田藩士染矢清忠氏
六十二歳の時転写したものである。
○ 会員白井一二蔵本。
本書の書写は最も新らしく明治四十年頃らしい。その系統は不明で文中脱落が多いが書入は
明治末に迄及んでゐる。画家長尾精江氏の蔵印あり。
(二)
著者林正森は元禄九丙子年五月廿一日、吉田呉服町に生れた。幼名を亀之丞と云ひ、後弥次右衛門と更
め号を自見と称した。
祖先は林雅楽と云つて所謂東三河十七人郷士の一人であり(一一頁参照)、その男林十右衛門景政は射術を善
くし、元亀三年春吉田に攻め寄せた武田信玄の兵を飽海口に防いで功があつたので時の城将酒井忠次か
ら賞せられ、景政の兄林助兵衛正秀は池田輝政に仕へ、長久手で戦死したが、その子孫が吉田に永住す
るに至つたもので、正森は正秀六世の孫である。
三州吉田記巻末の林家系譜に依れば、景政を兄(五二頁五行目)とし、又正秀を兄(五二頁十四行目)とするの両様あり、
正秀、景政何れが兄か明確でないが、没年を正秀、天正十二年行年四十二歳、景政、天正十四年行年四十一歳と記して居り、且
「正秀男景重幼稚也故景政為_二後見_一承_二継家督_一レ(五三頁一行目)の一節あれば正秀が兄と推される。尚菩提寺の龍拈寺に
ある位牌には玉叟洞珠信士(林正美)からでそれ以前は刻されてない。
正森は幼少より杉江常翁なる人に就いて学問した。
杉江常翁とは如何なる人か審でない。自見の著、世諺辨略、九文字屋、木村坥【坦?】之の序文に「翁少而従杉江翁者学道」、三州吉田記(本書七
頁)に「儒士杉江常翁云々」及び雑説嚢話巻下・隕石の話中に「予か師杉江常翁云々」と二三その名を見得るのみである。
廿五歳にして吉田町年寄役並びに利町世古町の庄屋を兼ね、元文二年八月、四十二歳の時には吉田町問屋
役となつた。兎に角非常な手腕家であつた事が推察される。
此処に自見の年齢を元文二年に四十二歳とするは、その生年が元禄九年とあるに依つての計算である(五十三頁参照)。然るに校
訂に用ひた四本共「元文二巳年八月、四十一歳、問屋役」と記す。何れが是か明らかでないが、しばらく前者に従ふ。
寛延三年五十五歳の時、彼は三州吉田記を著して吉田に於ける郷土研究の先駆をなした。続いて宝暦
十四年六十九歳の時には市井雑談集、同年(明和と改元)雑説嚢話を著した。
又この年の冬、彼は渥美郡雲谷普門寺観音堂の前に「とことはに照す光は幾世ともかぎらしものを法のと
もしひ」との歌を刻した石燈籠一基を奉献した。之は、自見の祖父弥次右衛門景品、この人は廿一人の子
福者であつたがその十三男に教春と云ふ人があつて、遂には高野山北宝院の門主に迄なり、宝暦元年十二月
八十三歳で寂した。この人が初め僧になつて入つたのが普門寺であり、且一時は住職になつて居たその関
係から奉納したものと思はれる。又豊橋市史談に依れば、今は存在せぬが何時の頃か龍拈寺の開基塚の
処に牧野古白の碑を建立したとも云ふ。
三