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翻刻
二〇二
魏の嵩山に似て幽邃の地だといふので嵩山と名づけ、一宇を建立し
たのが初めだといひます。一時は非常に栄えまして、山内に十二坊
と末寺が百ヶ寺あつたいひますが、今山内に坊はありません。其後
衰微したものと見えまして永禄年間この地にゐた西郷弾正が、伽監
を再興し寺領を寄せてゐますが、徳川時代には朱印で三十石を持つ
てゐました。曽て応挙や盧【蘆の誤植か】雪などの絵師が寄寓してゐた事があり、
其盧【蘆の誤植か】雪の描いた波の大幅は有名なものです。これは八幅に続いて只
一つの大波を描いたもので、現代人の想像にも及ばない材題ではあ
り、筆勢雄健、東三屈指の宝物です。其外にも名画を多数に所蔵し
夏の日の曝涼には参観人で賑ひます。本堂は新らしいものですがよ
く周囲の山水と調和し宏大な伽監は静寂な雰囲気に包まれてゐます
此門前を、御油に起り豊川から遠州へ出る姫街道が通つてゐます
この先に国境の山を超える本坂峠がありますが、其途中右手に石
灰洞窟があります。
嵩山蛇穴 といふがそれで、深さはどれだけあるか末だ見究めた
人がありません。所々で分岐して居りますので、一度道を失つたが
最後、もう暗黒の世界から遁れ出る事は出来ないのです。附近一帯
が石灰岩で、石灰を製造したりセメント原料に採集されてゐますが
大正十一年此地に於て化石人骨を発見しまして、旧石器時代のもの
ではないかと大騒ぎをした事がありました。しかし結局それは鹿の
骨であるとの事でしかと分らずに終りました。これがお隣りの支那
で発見されました。ミナントロプス、ペキネンシスのやうなもので
ありましたなら、それこそニホントロプス、スセネンシスとでもい
ふ大変なものになつてゐたかも知れません。
二〇三