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翻刻
二三〇
十月参河国阿志神授従五位下とあるこの郡唯一の延喜式内社であり
ますが、永らく荒廃しまして、その社地さへも分らなくなつてゐま
したのを、寛文十年に田原の藩主三宅康勝の再興したものでして、
其時藩主の寄附した石灯籠一対が今に、昔を物語つてゐます。伝説
には康勝の夢に神が現はれ、阿志神杜は大切な官社だからこれを再
興したら姫の病気が癒るであらうと教へられたので、早速家臣を遣
はし地を求めて再興されたといひます。今の社殿は明治少し前のも
ので、附近の葦の池は社に対して如何にも幽邃の趣を添へてゐます
次の泉村へかけては和名抄にある和太郷の地と考へられますが、
これが和地に転じ、田原以南の総称であつた時代もあります。今
日では和地の地は伊良湖岬の一偶に残りまして僅かに其名残を留
めてゐます。この泉村にも鸚鵡石や銅鐸発見地、貝塚などの見る
べきものが残つてゐます。
鸚鵡石 は字馬伏にありまして、これは昔恋する乙女が男を恨
み秘蔵の笛をくはへ、この岩上から飛び降りて死んだ、其後この石
はいかな音でも反響するがただ笛の音だけは反響しないといふ哀話
を伝へてゐます。
村松銅鐸 は我国銅鐸発見史上重要なもので、三代実録に、貞観
二年八月十四日三河国銅鐸を献す高三尺四寸経【径の誤植か】一尺四寸渥美郡村松
山中に之を得たり或は阿育王の宝鐸と曰ふ、とあるものです。口碑
ではその村松山中小字名金堀といふ処だと申しますが、羽田野敬雄
は、名草の山間に金堀といふ処あり、村松の西南にて馬伏の地なり
鸚鵡石の西三町許りの所にて柳七八本ありこの処ならんと考証して
ゐます、これもやはり伊河津の地内でありますが、何分にも千年以
二三一