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翻刻
悩んで居る程で、全國に類のない乾繭取引所もある位です。
養蠶に就いては延喜式にありますやうに、近江、伊勢と共に上糸國
となり、色々と精巧な織物を出して居りますが、それを初めたのは
雄略天皇の朝にこの邊へも分置されました帰化人の泰人達であつた
やうです。市内の花田はもと羽田と書きまして、泰の字を用ひた文
書もあり、随分古くから養蠶の盛んな土地であつたといはれて居り
ますが、中世に於きましては木綿に壓倒され甚だ振はなかつたので
あります。處が明治になつて急激な發達を遂げ、農家などどちらが
本業か分らない位で、従つて豊橋地方の経済界は、繭糸と重大な關
係を持つて居る譯であります。
其他に産物と申しますと麻眞田加工品、毛筆、三州味噌それに海苔
位なもので、其他はマア附帯工業といつた所でせう。この毛筆は延
喜式にも三河から献る規定があり歴史も古く、海苔の方は歴史こそ
新しいが大都市へ進出して相當聲價を挙げてゐます。
豊橋と云ふ名は、明治二年六月二十三日に吉田を改めたもので、こ
の吉田は甲州にもあれば四國にもあり紛らはしいので改めたといひ
ますが何れ大名などの勢力關係もあつた事と思はれます。この豊橋
は吉田大橋といふ豊川に架けられた橋の別名をとつたもので今日で
は町の名も橋も同じ豊橋です。地圖を御覧下さると分りますが市の
西北部が一段と低くなつてゐます。此低い方面は昔然菅海と云はれ
豊川河口に當る入り海で對岸一里先の小坂井までの間を船で渡つた
といひ傳へて居ります。然し中間に當る所々に砂洲など相當な陸地
があつたものと見えまして、そこに先史時代の貝塚があつたり、原
史時代の古墳があつたりします。また台地の所々にも貝塚がありま