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翻刻
二四
すが、小坂井方面のやうに遺跡は豊富でないと思はれます。
豊橋の歴史は余り古い事は分りません。鎌倉時代以前の事は和名抄
に磯邊、高芦、多米などの郷名が見える外、伊勢神宮の神戸が天慶
弐年に置かれてゐます。これは飽海新神戸と申しまして戸数で十戸
ありましたのと、又薑御園、岩崎御園、橋良御厨、高芦御園、野依
御園と五ヶ所の名が伝はつて居るのに過ぎません。然し牟呂とか飯
村とかいふ原始的の名を伝へた処もあり、先史時代の遺跡も間々あ
りますから、遼遠の古代から人間の住んでゐた事は事実と思ひます
それと今一ツ、類聚三代格にある承和弐年の太政官符に渡船増加云
々とある飽海川は豊川の古名と考へられ、古来東海の官道に当つて
ゐたらしく、そこへ発生した部落が神戸の設置によつて多少発展し
たかと考へられますが、漸く著名になつたのは、戦国時代に入つて
からの事で、永正の頃牧野古白によつて築城され、それ以来城下町
として発達したものと見なくてはなりません。夫等の遺跡も追々に
御案内する考へですが、余り古いものは市中に無く、反つて市外に
多少御目にかけるやうなものがあるかと思はれます。
食事も済みましたから、ぼつ〴〵出掛けませう。順路は私にお任
せを願つて、最初に先づ電車線路に沿うて歩いて見ませう。この
駅の出来た当時は町の片隅だつたのですが、今日では殆んど中央
になりました。道が三方に岐れるこの中央のは旧停車場通りで駅
へ出る為めに鉄道の開通、間もなく開かれた路です。左は船町線
と申し、先に申しました豊橋の豊橋へ行く路、右は新停車場線と
いはれ、大正四年開通になつたものです。こゝ三四町の間は何も
御案内するやうなものはありません。
二五