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翻刻
二六二
これには帰化人である秦人達の功績を考へなければなりませんが、
其の結果は奈良朝から平安朝を通じ三河白絹の名で声価をあげ、践
祚大嘗祭には持に当国の絹糸を御採用になりまして、犬頭糸の名に
依つて朝廷の御料に供すると共に、畏くも神宮で神御衣祭の御料に
三河赤引糸を召されたといふ事実があります。此れ等は何処の国に
も求め得られない名誉であると私は考へて居ります。
それから近頃研究の結果によりますと、東三河の地は非常に考古
学的遺物の豊富の処で、学界著名な遺跡も十指に余ります。その発
見品には先史、原史時代を通じあらゆるものが出て居ります。私は
それ等の遺物の発見を誇るでなく、二千年三千年の昔に、かくも多
数の器物を遺す程の人間が住んでゐた事が、この地方の自然の恵の
如何に篤かつたかを語るもとして、誇るべきだとも思ひます。
然しながらこの自然の恩恵は人々を保守的な退嬰的な気風に陥れ
それに東西交通の衝に当つて色々の事物に接する結果人情は軽薄と
なり敦厚の風は見られません。これが古来大人物の出なかつた大き
な理由でありませう。勿論元亀天正頃には多少覇気のあるものも出
ましたが、気の利いたものは天正十八年家康に従つて江戸へ出て仕
舞ひ、跡には屑許りが残つた形です。その上徳川氏が三河全国を十
小藩に分ち尚其の間に天領を置いて大勢力の発生を防いだ、これが
余程人心に影響して居るやうに見られます。
次に物の方面で申しますと、国宝が十四点、史蹟が三ヶ所、これ
に天然紀念物が十ヶ所許りあります。其の内国宝では国分寺にある
奈良朝時代の鐘、普門寺にある久寿三年の経筒などは立派なもので
史蹟としては奥平信昌、鳥居強右衛門によつて知られた長篠城、天
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