Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

東三河道中記 : 豊橋市及其附近案内 - 翻刻

東三河道中記 : 豊橋市及其附近案内 - ページ 26

ページ: 26

翻刻

                         四八 処で、教師には著名の人物も居り、吉田に於ける文教の中枢であつ たのです。此西隣りが市役所で、もとは渥美郡役所の建物でした。 市役所は此西にありましたが、昭和三年十二月焼け、当時郡役所廃 止で不用になつてゐた建物へ移つたのです。  食事も済みましたから、またボツ〳〵出掛けませう。今度は少し  西へ参ります。 この西へ突当つた処は悟真寺ですが其手前南側に松が一本ありませ う。此樹下に小野湖山の寓居がありました。湖山は明治五年に東京 へ移住しましたが、其邸内には明治元年湖山が同志と共に祀つた楠 公祠があり、移住と共に他に移され転々とした揚句、只今では東田 町八雲ヶ岡に祀られて居ります。それからこの西八町に 琵琶塚   といふのがありました。これは城主牧野大学成央に仕 へた土肥二三といふものがありまして、物頭役を勤めてゐました。 至つて風流な人で、茶道の心得もあれば絵も描き、殊に琵琶の名手 で邸内に妙音天を勧請して一の塚を築き琵琶塚と呼んだといふので して、この二三の事は近世奇人伝にも出て居ります。  これから公会堂の処まで戻ります。この東側を突当つた処が十八  聯隊の兵営で昔の 吉田城   です。この城は先にも申しました通り永正二年に牧野 古白が始めて築きまして、其後数次の争奪があつて後徳川氏の手に 入りました。そして永禄八年酒井忠次が第一次の拡張をし、天正十 八年に池田輝政が第二次の拡張をして居ります。德川時代には城主                          四九