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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

東三河道中記 : 豊橋市及其附近案内 - 翻刻

東三河道中記 : 豊橋市及其附近案内 - ページ 27

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                         五〇 の更迭も度々ありまして最後までゐたのが今の大河内正敏子爵家で その治績など詳しいものが色々の書物となつて残つてゐます。この 城が敵の攻撃を受けたのは永正三年と享禄二年と永禄七年、それに 文亀二年と天正三年の五回が主なもので、永正三年には築城者の古 白が戦死し、享禄二年には松平清康の為に再びこの城に拠つた牧野 一族が亡ぼされ、一旦松平氏の手に入つたのが今度は天文十五年に 今川義元の勢力範囲となり、小原肥前守が守つてゐたのを、永禄四 年に家康が今川家に背き、東三河の諸城は皆これに従つたので肥前 守は預つてゐた人質十幾人を龍拈寺口で刺殺しました。それを永禄 七年に家康が攻めまして城を陥れ、肥前守は遂に自殺しましたので 仇を酬ひ、城を酒井忠次に与へました。やがて今川氏が衰へると今 度は武田氏の勢力が侵入し、文亀二年に信玄が来て城に迫つたので すが大戦にもならずに退き、其後天正三年に武田勝頼が来襲しまし たが、此時は城を持堪へる事が出来ました。天正十八年家康が関東 移封と共に酒井忠次も関東へ移り、跡へ池田輝政がやつて来て、こ れが第二次の拡張をいたしました。城内の模様など今日それと想像 し得る程度に残つて居り、特色のない平凡な城ですが、裏手の豊川 に臨んだ処はまことによいやうに思はれます。 屯営    明治十七年にこの城跡へ屯営が置かれる事となりまし て、それと同時に今練兵場になつてゐる処、あれには神社が三ッと 民家があつたのを他へ移して作つたので、神明小路、袋小路、八幡 小路とか土手町、川毛町などがありました。屯営が出来上つて十八 聯隊が参りましたのが明治十八年の四月で、日清戦争の時には平壌 攻撃で名を挙げ、日露戦争には数度の偉勲に感状を授つてゐます。                          五一