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翻刻
六六
本で、夫等を一纏にして住職は旅の姿も甲斐々々しく野越へ山越へ
遥々と此全久院まで届けた上、自分は郷里越後へ引退したといふの
です。其心懸の美しさには全く感服の外ありません。本堂も庫裡も
大正三年の建築で、境内には戸田氏の墓が数基あり、中に松君とい
ふのは憲光の末孫康長の妻で家康の妹でした。之で境内を出ませう
此寺の前にある蓮田は一段低くなつてずつと続いて居る処を見ます
と、どうも昔こゝに河があつたのではないかと思ひます。
次は西に向つてぼつ〳〵歩きませう。右手にあるのが先程下を通
つた時申上げた
臨済寺 で、之は曽て城主だつた小笠原忠知が、豊後の杵築に
ゐた頃父の追善の為めに建てた寺で、移封と共に飽海に移し、以前
は父の法名をとつて宗言寺と申しましたが、寛文三年に忠知が没し
子の長矩がこれ又父の追福にこゝへ移し寺号を改め、寺領として百
石を与へたといひます。維新間もなく全部取毀され、山門と庫裡だ
けが残つてゐましたのを数年前新築したものです。本尊は木彫の釈
迦像で、高さ約一尺八寸、余程古いものと思ひますが之れも後世の
補修で一寸識別がつきません。寺伝に恵心僧都作といひますのは、
比較的古いといふ事だらうと思ひます。境内には忠知以下の墓が十
基余もあり、それに寛文の石灯籠も十基からあります。又此寺には
山田宗偏が滞在したこもとありまして、今こそ見る影もありません
けれども、庭園などその差図になつたもので、今に自作の茶器数点
がこゝに所蔵されでゐます。
今度は前の路を南に参ります。電車線路を越えて突当りから右へ
曲ります。この右手の松林中が
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