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翻刻
八六
これは寛政八年に建てたのですが、華道では是心軒の名は有名なも
ので、安永四年此地へ来られたのを手初めに、其後も時々通り懸り
に杖を止めて華道を伝へ、当時この観音寺の住職も弟子の一人でし
たが、吉田の地に華道の起つたのは此時からの事でありました。
この観音院創立は永正三年指笠町から移転して来たもので其外の塔
頭は西禅院慶長四年、三昧院永享三年、樹松院応永三年、龍興院永
和元年、専弥軒永享六年、勢至軒永禄九年、竹意軒大永五年、法蔵
院応永二年、東高院文禄四年、善忠院明徳三年、全宗軒天正十一年
で、中にも龍興院の本尊は雲谷の普門寺から伝来し、土肥実平が母
の菩堤を弔ふ為に造顕したといふ寺伝のある高さ五尺からの座像で
す。この背面に以前その来歴が書いてあつたといひますが惜しい事
には補修の際塗潰して仕舞ひました。又専弥軒のは天正頃のもので
全身に蒔絵が施して見事なもの、樹松院のはあまり上出来ではない
が鎌倉末期の作のやうに思はれます。
これから門前へ出ますと、北が関屋町その右手に吉田神社がある
から参りませう。
県社吉田神社 は土地の名を負ふて居る処、豊橋の代表的神社と
いふ事が出来ませう。此処はもと城内でありまして、神社は余程古
くからあつたと見え、源頼朝の家臣安達藤九郎盛長がこの三河に奉
行をしてゐた頃盛んに神社や仏閣の造営をやりましたが、本社も其
時造営されたといふやうな説もあります。こんな事から頼朝が崇敬
したといふ説も生れたのでせう。其後牧野古白が築城するに及んで
其処にあつた浄業院を先程の地点へ移し、本社だけは城の鎮守とし
て残したといひます。御覧の通り社殿は余り立派とは云へませんが
八七