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翻刻
九六
戸からの調庸の名残でありませう。
それを神宮へ献るのだから御衣と尊称し、また神御衣祭に三河国赤
引糸をお用ひになつた事があるので、遠州岡本村では三河から糸を
取寄せて織つたりしました為に、話が混線しましたので、この吉田
を経て送つた事は海運の便といふより外に大した理由はなかつたや
うに思ひます。
このおんぞ祭の歌は大方忘れられてゐたのですが、昭和八年にこれ
を知つて居る八十歳余のお婆さんを尋ね出し、同志と謀つて採譜印
刷して後世に伝へる事に致しました。
これで境内をぬけ堤防へ上りませう、これが豊川です。
大橋 は大正五年に出来たもので、元の橋は並んでかけてあ
る水道橋のその位置にありました。水道橋の方は昭和五年に出来た
ものでして、以前の橋は明治十二年に架けたものでした。今の親柱
は以前のをその儘使つてありすがこれを書いたのは後に県令となり
ました当時大参事であつた国貞廉平です。徳川時代にはこれより約
一丁下流に架けてありましたが、吉田大橋といひまして、六郷、矢
矧、勢多と合せ東海道の四大橋といはれ幕府の直轄でした。この橋
の起源は元亀年間に酒井忠次が関屋口へ土橋を架けたといふが初め
で、池田輝政が此処へ移し板橋としたもので、その後寛永十八年ま
での事は分りませんが、それ以来の事は記録があつて架換六回、修
繕十回といふ事になつてゐます。最も架換や修繕などの時は仮橋を
架ける事もありましたが、大抵は渡船によつたもので、其渡船場の
跡は尚一町程下流にあります。秀吉が天正十八年小田原征伐のとき
此川までやつて来て洪水に遭ひ、それを強ひて渡らうとして伊奈忠
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