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翻刻
一〇四
て建てられ、それへもと指笠町にあつた光明寺が明治四十四年名古
屋へ移転する時一切をこの寺へ譲りましてただ名義だけを持つて行
きましたので、いはば合併された形です。その光明寺は大永五年の
創立でその本尊がこの寺の本尊となつてゐます。木彫りで三尺余り
の立像ですが室町時代の作でありませう。前の薬師堂には一尺三寸
程の薬師像を祀り、十二神将の像もありますが、一二体紛失して居
ります。
此処の墓地にこれも光明寺から移したのですが、秋元清左衛門の
墓があります。これは姫路藩の家臣で物頭役を勤め江戸にゐました
が、文久三年諸藩の参勤を停められたのでまだ見た事もない国許へ
妻子を連れての旅の途中、この地で疾んで死んだのです。行年は六
十五歳といふから相当の年輩で、私はその死の直前の心持を察して
気の毒でなりません。騒々しい世の中に前途のくらい旅路で知らぬ
国元へ妻子を連れて行くさへあるに、寄る年波に疲れた彼がこの吉
田で死ぬ時の心持はどんなであつたでせう。爾来風雨七十年弔ふ人
のないこの墓へ時々は香華を手向けるやうに心がけて居ります。そ
の前にある穂積清軒の墓、これは吉田へ初めて洋学を輸入した人で
色々の逸話が残つてゐます。
又門際にある庚申、これは延宝七年のものでこの地方としては古
いものですし、寛文三年の水盤は市街地では墓碑を除いて最古の金
石文です。
それからこの寺が山号を三社山といふのは元鎮守として神明、白
山、天神の三社があつたからで、古文書としては寛永、正徳、元禄
などの領地証文が残つてゐます。この前の空地は明王山大聖寺のあ
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