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翻刻
一〇八
羽田野敬雄の墓があります。その生籬を囲らしてあるのがそれです
正面に権少教正羽田野栄木墓とあり、側面には明治十五年六月一日
歿年八十五とありませう。この翁につきましてはこの先に翁の建て
た羽田文庫の跡と云ふがありますからそこで申上ませう。
次はこの道を行きますと曲り角の手前にある寺、これは英霊殿と
もいひますが本名は宝形院といふ真言宗の寺で、以前中世古町に
あつたものです。
これを曲つてゆくとすぐ右に神社の参道があります。
羽田八幡社 です。本社は前にも申しました通り天文九年に馬見
塚から遷されたもので、数年前郷社に列せられましてから境内を整
理して見違へるやうになりました。祭礼は行灯祭といはれ一尺に三
尺位の行灯へ俳句、狂歌、地口などを書き、それに俳画を添へたり
などしたものを何百も掛けたものですが、近来は祗園祭のやうに大
筒、手筒、打揚煙火などを出すやうになりまして、昔の瓢逸な趣あ
る行灯は見られなくなりました。
此社の裏台地の下に清泉が出まして栄川の泉といひ、松山の呉竹
の井と共に代表的二名水でした。これは神主である羽田野家の所有
で本社の御手洗だといふてゐました。伝説では昔家康が此近くに休
みまして、此清泉を呑みヱイ川ぢやと褒められてその名がついたと
申しますが、今日では双方共附近が開墾されて湧出しなくなり、ほ
んの名ばかりとなつたのは惜しい事です。旧藩時代には城主の茶の
湯に召され、一時は番人まで附けられた事もあつた程です。
羽田文庫 は参道中程の東側にあります。この小さな門は当時の
ものですが、文庫は今礎石が残つてゐる許りです。羽田野家は古く
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