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翻刻
一一〇
から神明、八幡両社の神主で、敬雄は宝飯郡西方に生れ羽田野家に
入りまして、名を常陸といひ、晩年になつて栄木と改めました。敬
雄とは其名乗りです。廿一歳で養子し、廿九歳で養父上総の職をつ
いて神職となりましたが、性来の読書好きで和漢を撰ばず万巻の書
を読破したものです。それに就て一挿話は、或時吉田藩で盗賊を捕
へ訊問すると、賊のいふに、以前西方の或る家へ入らうとしたが毎
夜夜半まで熱心に読書する子供があつて遂に目的が達せられなかつ
たと申立たので調べて見るとそれが敬雄で、次第に評判が高くなり
羽田野家に懇望されたといふ事です。尤も生家である山本家は富豪
ではあり、兄が三人あつて中兄の、これも他家へ養子した飯田軍次
といふ者が本居大平の門人だつたので敬雄にも入門するやう勧め、
廿八歳のとき入門したのです。処が如何なるわけか三十歳のとき更
に平田篤胤の門に入りました。これは以前から篤胤の学風を慕つて
間接に教を受けてゐたからでもありませう。これを取次しましたの
が平田鉄胤で、非常に親密な間抦でありこちらへも度々来て居りま
す。これから後追々交際が広くなり伴信友や飯田武郷或は神宮神官
の御巫清直だの一流の人物と交際するやうになりまして、所謂志士
なども窃に翁を訪ねて来た者もありました。大国隆正なども其例で
すが、福羽美静なども二三回訪ねて居ります。
文庫は嘉永元年吉田の同志十五人の支持で計画し、安政二年には
一千部、文久元年には千六百部に達しましたが満足せず、広く一般
からの寄附を仰ぎまして、三条実万卿から類聚国史三十巻と御註の
孝経一巻を、又徳川斉昭卿からは破邪集八巻を寄せられ、藩主大河
内信古よりは書籍三十七巻と文庫永続料に毎年米十俵づゝを下され
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