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翻刻
一一二
ました。かくて後には総数壱万参千六百余巻となりましたが、これ
は勿論公開されたものでして、中には翁の家に寄宿し勉強した後の
男爵大久保春野などもあります。此文庫は翁の歿後散逸の悲運に遭
つて、一部は西尾の岩瀬文庫、一部は長篠村信玄の牧野文庫に行つ
たとも云はれますが、其大部分は石巻村の大木氏方にあつたのを大
正二年豊橋市が譲り受け、それを基礎に図書館を経営する事になり
ました。
大正十四年十月十七日から三日間その豊橋図書館で翁の遺物展覧
会を開いた事があります。此時五百八十八種、千〇八点の出品があ
りましたが、其内には翁自筆の稿本写本が百四十六部二百八十二冊
あり、最も力を入れたのは神典でしたが郷土史的のものでは参河古
跡考十冊があります。意外に思ふのは殖産工業に対する見識で、明
治の初年に郷党に養蚕をすゝめるべく三河蚕糸考を出版して居りま
すが、其序文など実に経世済国の大文字です。文庫は御覧の通り跡
だけとなりましたが、翁の建てられた皇学四神遥拝碑と、福羽美静
の書いた翁の紀念碑とがこの中に残つてゐます。
次は西隣りの浄慈院へ参りませう。
浄慈院 この寺はもと下野の那須にあつたのですが、寛文七年
開山の良済といふが本尊の押合地蔵を負ふて諸国を巡歴する内、一
時この西の馬見塚といふ処に留まり、後高須新田といふへ移りまし
たが、其後延宝八年洪水にあつたので更に此処へ移つたといひます
これが寺の起りで、本尊はその押合地蔵だつたのが今は釈迦三尊に
なつて居り、其押合地蔵といふのは木彫りで四寸許りの地蔵が二人
立つて押合つてゐる形です。何処やらに之と似たものがあると聞ま
一一三