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翻刻
一二六
それから応安三年の古鐘がありますが、北朝の年号を用ひた処が
注意されます。これは台地下の田の中から堀出したもので、頗る大
文字に彫つてある処は銘文として上乗のものです。
棟札は応永廿四年のが一等古く、又家康自筆の制札があります。
これは永禄六年吉田攻めのとき陣中で書き与へたもので用意がなか
つたから拝殿の床板で間に合せたといひます。徳川時代入口に立て
てあつたので、往来の大名は一々乗物を下りて通らねばならなかつ
たのを、気の毒に思つた神職が写しを出してこれを仕舞つて置いた
といふことです。
それと古い面が四つあります。これは元禄時代のものといはれて
ゐますが、祭礼にはこの面を模したのが初まりだといふ色々な面と
風車とを売る店が門前に並びます。これは魔除けといはれ土俗研究
者の間にも喜ばれてゐます。
この祭礼については昔人身供御があつたといふ伝へがあり、今昔
物語や宇治拾遺物語には猪を神に供へるのを見て国司の大江定基が
発心し仏に帰依するやうになつたと書いてありますが、後世では雀
十二羽を献ることになり今に行はれてゐます。
何分氏子区域が広く、それに花火があり植木市があり、春も丁度
暖かになる四月十一日の事ですから遠近から夥しい人出です。色々
の神事がありますが、最も面白いのは旧正月七日の夜に行はれるお
田祭りで、これは神前で百姓が田打ちから取入れ迄の所作をすると
いふ土俗方面からは見逃せない神事です。
又本社の最も光栄とするのは、明治天皇様が御東行のとき平田延
胤が勅使として参向された事で、これは東三河ではこの社だけでし
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