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翻刻
一三〇
昭和九年になつて附近に区画整理が行はれ土器などが出たとの噂
を聞きまして、五月廿七日試堀した処五六点の土器を得ましたので
更に秋冷を待つて九月卅日発堀を行ひますと、完全な弥生式土器廿
個と破片など小車に一台程も出ました。そして十月廿五日補充発堀
をしまして五個許りの収獲があり、これで其全貌が明らかとなりま
した。
発見品は甕形のものが大小八個、高杯形のものが四個、台付甕三
個、壺形土器が六個、高杯の脚部は四十何個あり、それに口縁部や
底部の破片には紋様に注意すべきもの、問題の有孔土器などがあり
同時に鹿角二個を獲て居ります。これには鋭利な切断面があること
が興味を惹きます。そしてこの貝塚は所謂塹濠式の直線貝塚であり
まして、巾七八尺、深さ六尺位の貝層が南北に続き、台地の端から
起つて発堀位置まで百間以上あり、土器のみで石器はなく、且つ完
全品の多い点から考へまして普通の貝塚と違ひ何か宗教的遺跡と考
へなければなりません。この式の貝塚は未だ学界へも余り報告され
て居りませんので将来相当研究が加へられるものと信じます。
次は町通りから西方へ参りますと
報恩寺 です。距離は三四町で踏切をこすと直ぐです。今は小
さい寺ですが境内は余程広かつたものと見え、丁度正面に当る東海
道線踏切の近くで十年前に明応七年在銘の鰐口を発見しました。こ
れには法音寺とありましたが、以前は其辺まで境内であつたでせう
創立は大同年間ださうで、山号を大同山といひます。
この寺は平安朝に於ける官道に添ふた官寺の一つで即ち対岸へ渡
る設備の一つであつたやうに思ひます。観音堂は元禄の建築ですが
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