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翻刻
一三二
漸く頽廃に頻して居ります。
余り古いものはありませんが寛永七年の絵馬があり、これは狩野
法眼の筆になり、毎夜抜出ては畑へ行つて麦を喰つて困つたといふ
伝説があります。本尊は権作の千手観音で鎌倉時代のものらしく、
外に腐朽して心許りとなつた仏像があります。これは或は平安朝時
代のものと考へられるもので、庭にある鐘は幕末に吉田藩で大砲鋳
造の材料にしやうとしましたが、幸ひに其難を免れましたが当時の
文書が残つて居ります。
この後ろに寺域に接して観音山と云ふがあります。横穴式古墳で
とつくに破壊され二三の巨石が残されてゐるに過ませんが、この地
方には曽て沢山の古墳があつて、吉田築城の際大分破壊されたと言
ひ伝へて居ります。
多美河津神社 はこれから北数町の大字宿にあります。
仁徳天皇の朝創立といふ社伝と祭神が三河穂国造朝廷別王である外
とり立て云ふ程の社ではありませんが、この社の近くに平安朝時代
国府から渡津駅へ出る街道の痕跡が残り、長ボタ(ボタとは土手の
意)といつてゐます。
次はこれから西へ七八町で東海道の踏切をこえ、平井の村落を西
へ出はづれた処に貝塚があります。
稲荷山貝塚 で大正十一年に人骨五十一体を発見して天下を驚か
した処です。この貝塚の発見は明治卅三年頃此地の大林意備といふ
老人が発見して学界に報告したのが初まりで、坪井博士や大野雲外
さんなども度々来、三河最初の発見である丈けに学界では可なり有
名です。この意備老人が丹精して聚集した遺物数百点は今京都帝大
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