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翻刻
一三八
銅鐸発見地 はこの伊奈と前芝村との境に接した処ではあり、其
上前芝のものが発見したので、初めは前芝村発見と伝へられたので
す。其時はまだ小学枚【校の誤植か】の建たない以前で、全く田圃の中でした。
全部で三個が地下三尺位の処から出まして、現品は帝室博物館に所
蔵されてゐます。御承知の通り三河は銅鐸分布が非常に濃厚で、こ
れを加へると十五個に達する筈ですが、これが発見された時には相
次いで調査に来られる方々の応接に案内に不眠不休の日もあつた程
それ程私には思ひ出深い場所です。
次は
伊奈城址 で八幡社からは北西に当ります。只今では旧本丸址が
僅かに残つて居るに過ぎませんが、此城は上島城といひまして、室
町の中期から天正十八年まで本多氏の居城でありました。この本多
氏はもと山城加茂神社の社家で中務といつたのが豊後国へ流され本
田郷に居ました。其子の助秀は本多八郎と名乗り、助秀の嫡男助定
が尊氏をたすけて軍功があり、西三河へ地を貰つて移りました。東
三河へ来たのはそれより三代後の定忠のときで、此処に城を築き又
東漸寺を建てたり八幡社を崇敬した泰次はその定忠の子です。
其頃から本多家は徳川家を扶け、吉田城を攻めたり、田原城を攻
めたりしたのですが、此城址から北に当る葵ヶ池は日本外史にもあ
るやうに享禄二年徳川清康が吉田を攻落し伊奈城まで引上げた時、
定忠がこの池の葵をとりまして肴を盛つて出しますと清康は大に喜
んで、それ以来自家の紋所としたといひます。これは三ッ葉葵で、
一方本多家でも三ッ葉の立葵を紋としてゐます。
此附近はこの程度で終りまして、次は昔の街道へ出て十二三町も
一三九