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一四〇
の松並木を通ると国府町です。小田淵停留所から電車の便もあり
ます。
町から御油駅へ行く街道を南に進むと川があります。此川は音羽川
といひまして持統上皇が当国へ行幸されました頃は、この辺まで船
で上ることが出来たやうにもいつてゐます。橋を渡つて少し行くと
右手に見える山が新宮山で、其麓に古墳があります。
新宮山古墳 と仮りに呼んでゐますが実に立派な前方後円の古墳
で、これは三河国造の墓だと申して居ります。三河国造といつても
一人や二人ではありますまいし、時代も其頃のものですから或はさ
うかも知れません。とに角これ程完全に遺されたものは東三河にな
いので、史蹟にでも指定されたいと思ひます。測【側の誤植か】溝もありまして清
らかな水が流れて居ります。此処から西南に当る小高い処に、昔城
があつて不意に敵襲を受けた守将はこゝまで落のび、この塚の上で
切腹したといふやうな話も伝はつて居ります。
昌林寺鐘 この塚から東に当る部落は森といつて和名抄の望理卿
の名残りと考へられますが、そこの森豊山昌林寺は佐竹刑部左衛門
政行の菩堤寺でして、寺名はその法名森豊院昌林常縏【?】居士から取つ
たものです。天正二年の創立といはれる小寺ですが、この寺にある
鎌は寛正五年に中条郷北鍛治村、今牛久保町の中条神社へ佐竹清康
といふが奉納したもので、それが慶長十六年額田郡深溝村本光寺へ
売渡され、更に寛文元年にこの村にゐた佐竹氏の後裔が買ひ戻して
自分達の先祖を祀る其寺へ納めました。この事抦が次々の銘文とな
つてゐるものです。これが明治の初めにどうした事か佐竹武雄とい
ふ人の手に渡り、それを明治十年になつて其人から改めて寄附を受
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