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翻刻
一四二
け、住職と世話人が四人それに村総代の連印で大切に保存するとい
ふ証文を出しまして、それに本山の西明寺住職が加判して居ります
処が近頃になつて村ではそこの神社の宝物にしやうと交渉中だと聞
きましたが、いつ迄経つたら安住の地が得られるかと鐘も歎いて居
る事でせう。
鐘の話序にこれから西に国坂ごえといふ古い街道がありまして、
その道添ひの金割といふ村の仲仙寺に文安三年の鐘があります。こ
の金割といふ地名は、昔武蔵坊弁慶が国分寺の鐘を持出し、そこ迄
持つて行くと国分寺恋し、国分寺恋しと鳴りだしまして中々止まな
いので、そこへ捨て行つた、この時弁慶が余り強く投げだしたので
少し割れた、その後そこを金割と呼ぶやうになつたといひます。
この仲仙寺附近から古い瓦が出ると聞きましたので奈良朝時代の
寺かと調べてみますと、それは仲仙寺でなく字豊沢といふ処の弥勒
寺址から出ることが分りました。立派な蓮弁のあるもので、それに
周縁に雷紋のあることはこの附近に類例のないものです。
国府町で見るものは守公神社と観音寺でせう。
守公神社 は町の南裏にありまして、本来はシユグウで社宮とか
社護神などと同様石神であつたと考へられますが、それをモリノキ
ミと読んで三河守公といふが祭神となつてゐます。この社には応永
廿三年の鐘があります。これは維新当時、寛文十年に当地の平松弥
太夫正家が奉納した大般若経と共に近くの高膳寺へ預けてあつたの
を近頃漸く取戻したとの事で、大般若経の方は末だに其侭になつて
ゐます。
観音寺 は町通りの南側にありまして駅から正面の大松を見当
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