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翻刻
一五〇
財賀寺 は神亀元年に行基の開いた寺といふことなつてゐます
が、例の安達藤九郎が頼朝の命を受けて造営したといふ三河七御堂
の一つで、木【本の誤植か】堂や仁王門に見るべきものがあります。先づ仁王門か
ら申しますと、これは今単層ですが、もとは重層で其外は殆んど昔
のまゝだといひます。
三手先の組物など立派な物で、柱に粽がなく肘木や斗束など和様
の特長があり、中の仁王尊は非常に損じては居りますが、矢張り当
時のものです。本堂は五間五面の入母屋造りに流れ向拝がついて、
全部が欅材を用ひてあり、屋根は杮葺でこれは徳川時代の再建です
が余程古い材料を用ひたやうです。
本尊は千手観音で行基の作といひます。両側の廿八部衆は鳥仏師
の作といひますが奇怪な容貌をしたもので製作時代は一寸想像がつ
き兼ねます。その裏手にこの寺の鎮守として祀つた八所大明神の社
がありまして、明応四年牧野古伯が造営した棟札がありますが、こ
れは吉田城を築いた牧野古白と同一人か否かまだよく分りません。
又境内にある文殊堂は、もとこの村の入口に当る文殊山にあつたの
を移したものです。これは大江定基が愛人力寿の死んだとき、文殊
菩薩の告げで舌を切り取つてそこへ葬り、力寿山舌根寺を営みまし
たが、この文殊堂がその舌根寺に当るものといはれてゐます。本尊
には力寿の念持仏であつた文殊菩薩の像が安置されてゐます。
この寺でも小坂井菟足神社でやるやうな田舞といふがありまして
それは毎年旧暦の正月五日に行はれまま【衍字か】すが、其役は司嗣(つかさ)一人、田(た)
俊(をき)一人、田夫(たつくり)三人、撃鼓(たいこたたき)一人、携蹲(たるもち)一人、盍者(そなへものもち)一人、負児婦(こもちおんな)一人、
為摧者(うしのまねするもの)一人、駆牛者(うしをい)一人で、これは役が極つてゐて、村内の者でも
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