翻刻
【右頁上段】
《割書:小野小町|一代由来》七(なゝ)小(こ)町(まち)物(もの)語(がたり)《割書:◯さうしあらひ|◯雨ごひ小町|◯かよひ小町|◯せき寺小町》《割書:◯そとは小町|◯あふむ小町|◯きよ水小町》
【本文】
小町は小野氏(をのうぢ)にて。其 先祖(せんぞ)を尋(たずぬ)れば。孝照天皇(かうせうてんわう)の御 子(こ) 天(あま)の
たるひこおしくにの尊(みこと)より傳(つたは)りて。代々 近江(あふみ)の国。志 賀(か)のこほり
小野ゝ里に住(すむ)人也。依(よつ)て氏をかくいへり。父(ちゝ)の名はよしざ◯仁明(にんみやう)
天皇の御時。出羽(では)のぐんじになされたり。小町は其生れつき
誠にようがんびれいにて。色どりかざりをかゝざれ共だん
くわの口びる桂のまゆ。かんばせは桃花(とうくわ)のごとく。はだへは
梨花(りくわ)にことならず。尤(もつとも)其時にぬきんでゝ。世上(せじやう)第一の美(び)人
なり。年(とし)若(わか)き人々心まよはずといふ事なく。筆(ふで)に
つくし文(ぶん)をかざりて契(ちぎり)をもとむれども。父のぐんじ望(のぞ)み
有けるにや。堅(かたく)せいしてゆるさゞりければ。おのづからつれな
かりけると也。元来(もとより)和哥(わか)をよく読(よみ)て代(いろ)々(〳〵)の集(しう)にゑらひ
のせられ末(すへ)の世ゝ迄もとめる名をのこせり。小町が娣も能(よく)
哥よめるかし伝記(でんき)に見えたり。古今の序(じよ)に。小野々小町は
古(いに)しへの衣通(そとをり)姫のなかれ也。あはれなるやうにてつよからず。
いはゞよきおうなのなやめる所あるに似たり。つよからぬは。女
の哥なれば成べしと云々。右あらましは本 伝(でん)のをもむき也。
又玉つくり小町とて別人(べつじん)あるよしの説(せつ)あり。くわしく罷しる
べき事也。七小町といふは。さうし謡(うたひ)ものなどに 出たる事なれば
只哥物語のたぐひに打任せて。是よりくはしき道に入べしと也
【左頁】
「さうし洗(あらひ)小町」 【上下左右に鉤かっこ付】
むかし大裏(だいり)にて御哥合の有ける
に。小町の相手(あいて)には大友(おほとも)の黒主(くろぬし)を
さだめられて小町には水辺(すいへん)の草(くさ)といふ題(だい)を遣(つか)はされ
たり。黒主つく〳〵と思はれけるは。小町はすぐれたる哥の
上 手(ず)なれば。相手にはかなふまじ。何とそして其よむ所
の哥を聞出し。其うへにはからふべしと。小町のやかたに
しのび行て立聞をせられしに。小町はかくぞともしらで
明日(あす)の哥 読(よま)ばやと。哥の題(だい)を取出してかくぞ詠(ゑい)ぜられたり
哥【丸で囲む】まかなくに何を種(たね)とてうき草の。浪(なみ)のうね〳〵おひしげるらん
と読(よみ)。我ながら出来(でき)たりと悦(よろこ)び。たんざくに写(うつ)されたるを。
黒主物かげより聞すまし。やがて万葉集(まんようしう)にかき入て
置(をか)れけり。かくて翌日(よくじつ)清涼殿(せいれうでん)にて小町をはじめ。凡河内(おうちかうちの)
躬恒(みつね)。紀貫之(きのつらゆき)。壬生忠岑(みふのたゞみね)。左右(さう)にちやくざ有て。おの〳〵
哥を吟ぜられけるとき。小町が哥に過(すぐ)るはあらじとゑいかん【叡感】
ありければ。黒主是は万葉に入たる古哥也とて。すなはち
したゝめか書たる本をゑいらんに入られたり。小町はおどろき涙に
くれ。万葉集は我もしれるが。いか成家の本ぞやとくりかへし
ながめて。此すみ色のあたらしく。文字(もじ)もしどろ成こそふしん
に候へ洗(あら)ひて見侍候ふべしとそうもん申 ̄シ やがて御前にてあら
はれければまかなくの哥斗。一字も残らず流(なが)れうせたり。
黒主大にはちて。じがい仕るべしと立けるを。御門御とゞめ有て
是皆和哥を大 切(せつ)に思ふより致(いたす)所也とて。却(かへつ)て御かん【感】有けると也