翻刻
【右丁】
「あふむ小町」【見出し語の上下左右に鉤かっこ】
陽成院(やうせいゐん)のみかどの御とき殊さら
にしきしまの道をこのませおはし
まして其比かんのう【堪能】の人々あまたの哥をよませら
るれども。いまだ御こゝろにかなふほどの秀哥(しうか)なし爰(こゝ)
に小野小町は百(もゝ)とせのうばとなりて関寺(せきでら)のへんに
あるよしきこしめされ。かれはならびなき哥の上ず
なれば。おもしろき事どもやあらんずらんと。ゑいりよ【叡慮】
をめぐらされ。まづ御あはれみの哥を下され。其へんか【返歌】に
よりて。かさねて題(だい)を下さるべきとのせんしにより。
ちよくし小町のいほりにいたり。其をもむきをのべられ
御あはれみの御(ぎよ)せいをしめさるゝその御哥に
哥【〇で囲む】雲のうへはありし昔(むかし)にかはらねど見し玉だれの内やゆかしき
小町有がたくてうだいありてみかどの御哥をよみかへし侍(さふ)らはゞ
はゞかりおほし。一 字(じ)の返哥をつかふまつるべしとて
返【〇で囲む】雲の上は有しむかしにかはらねど見し玉たれのうちぞゆかしき
とよみたりければちよくしも大きにかんじ給ひ。凡(をよそ)三十一字見える
をつらねてだに心のたらぬ哥もあるに一字の返哥といふ事は
誠(まこと)に妙(たへ)【「丹」に見えるが「妙」の略字と思われる。】なる哥よみ也。しかし哥のていにか様の事やあると
尋給ひければ。小町こたへて。されはとよ此ていをあふむか
へしと申也 抑(そも〳〵)あふむといふ鳥はもろこしの名鳥(めいてう)にて人の
詞をさへつり。何そととへば何ぞとこたふ。されば此返哥をば。
あふむがへしと名付るなりとそ申されける
【左丁】
「清水(きよみつ)小町」【見出し語の上下左右に鉤かっこ】
小町はかくていく程なく世を去
て其名のみよに残れり。とくに
陸奥国(むつのくに)衣(ころも)の関(せき)の上人 諸国(しよこく)あんぎや有ける比。 都清水(みやこせいすい)
寺(じ)にさんけいしかなたこなたをながめ。音羽(をとは)のたきにいたり
て古言(ふること)を思ひ出て。誠や此音羽の瀧にてをのゝ小町
哥【〇で囲む】何をして身の徒(いたづら)に左(たかひ)にけん瀧(たき)の景色(けしき)はかはらぬものを
と。都のほとりを物に狂(くる)ひさまよひありきて読(よま)れけるは。今
の様に覚(おぼ)えていたはしくなどゝくちずさみ。かんるいをもよほ
されければ。小まちのゆうれいこつせんとしてあらはれ出。
やさしき旅(たび)の御 僧(そう)やな。そのうたをうけたまはればわらは
もそゞろあはれにさふらふなりそれにつき。市はら
野(の)と申所に小町の塚(つか)の候なりあはれたちこへて【出かけて行って】
あとをもとふらひ給へかしとありければ上人よろこび
それこそ愚(ぐ)そうがのぞみにて候へ。みちしるべして
たびたまへと市はら野にいたり。是こそ小町のつか
にておはしませ。よく〳〵とふらひたまへとてかきけし
て【ふっと消え】失(うせ)にけり。上人さては小町のゆうれいなりけるかやと
いよ〳〵かんるいきもにめいじ。よもすがら御 経(きやう)どくじゆ【読誦】
し。有がたき御法(みのり)をのべて念比(ねんごろ)に弔(とひ)【「吊」は「弔」の俗字。「とふ(問う)」に「とむらう」の意あり。】給ひしが。其 夜(よ)の夢(ゆめ)に
小野ゝ小町 四位(しゐの)少将二人共に仏果(ぶつくは)【注】を得てれんだい【蓮台】のうへにがつ
しやうしこんじきのひかりをはなちてとそつてん【兜率天】に
とびさりたまふと見たまひしと也有がたき次第なり
【注 仏道修行という原因によって得られる成仏という結果。】