翻刻
【右丁上段】
感(かん)【「咸」とあるところ】陽宮(やうきう)
かんやう宮(きう)は秦(しん)の帝(みかと)の時。はんゑきと云者(いふもの)の
首切取(くびきりとり)来へしと高札(たかふだ)打給ふ。爰(こゝ)にけいか。しんふ
やうといふ者二人帝を殺(ころ)し奉らんと。はんゑきが
首を取二人かんやう宮へ上る帝それ共しろし
めさず【理解せず】首じつけんなされしに。二人の者つるぎ
を出し帝(みかと)を手ごめになせし時。帝仰には后(きさき)の
の内 花陽夫人(くわやうぶにん)とて琴(こと)の上手有。しばし暇(いとま)をゑさせ
よ。琴(こと)を聞事一日もおこたる事なしけふは聞ず。琴
を聞たしと有ければ。しばらく夫人(ふにん)琴たんじ【弾じ】給ふ
ひきよく【秘曲】をつくし給ふ内。 帝(みかと)手ごめをとき二人共に
討給ふ。琴のとく万金にもかゑがたしとかや
【右丁下段】
【見出し】「花のえん【源氏香の図】」【見出し語の上部左右に飾りかっこを付け全体を▢で囲む】
此巻は詞をもつて名とせり
源氏十九歳の春のことなり。
大内【内裏。「大」は美称】の南殿(なんてん)の桜のさかりに花の御あそびあり。
花のもとにて詩(し)をつくり給ふ。その夜大内の藤
つほといふきさきのゐ給ふあたりを忍(しの)ひありき
給ふに。たれともしらぬわかき女の声にて。おぼろ
月夜にしく物そなきとうたひけるに。源氏いひ
より給て。わかれに扇をとりかえて帰給ひし也
哥に〽いつれぞと露のやどりをわかんまにこ
ざゝかはらに風もこそふけ○此哥はおぼろ月夜
の哥に。うき身世にやがて消なはたつねても
草のはらをはとはしとや思ふ。とよみ給ふかへし
の哥也。いつれそとの心は。いつれそと尋んほとも猶
おほつかなかるへし。ましてやとりをたつねんとする
ひまには。こさゝかはらに風ふきて。露のちり
うせることくさはかしく。あふこともかたかるへしと。
名を問給へとも名のり給はねはかくよみ給ふ也。
此朧月夜(おほろつきよ)のことゆへけんしすまへうつり給ふ也。
巻の心はおほろ月よの君。かる〴〵しく独(ひとり)ありき
給ふゆへにかゝることありと。女のいましめにかけり
【左丁】
百万(ひやくまん)
百万といふはならの都(みやこ)の人なり。百万のひとり
子を和州吉野(わしうよしのゝ)ゝ【送り仮名の重複】人 南都(なんと)西大寺(さいだいじ)の辺(へん)にて拾(ひろ)
ひし也。此子をさかの大念仏に参りし時つれ立
行しに。物くるひの女来りさま〴〵に狂(くる)ひし
をいか成人と尋しに。我は奈良の都百万といふ
女也とこたふ。それは何ゆへ狂人(きやうじん)と成たるよし
尋ねければ夫(つま)には死(し)して別(わか)れ。ひとり有み
どり子にはなれてくるふよしいひしに彼 拾(ひろ)ひ
し子の母にてあれば渡しかへしぬ悦(よろこ)びつれかへ
りし也 誠(まこと)に物にくるふほどに。親のじひあれば
子としてはをやを大せつにし孝行(かう〳〵)をつくすべし
【左丁下部】
葵(あふひ)
はかり
なき
千尋(ちひろ)【きわめて深い】
の
そこの
みるふさ【海松房(みるぶさ)】
の
おひゆく
すゑは
我(われ)のみぞ
見む