翻刻
【右丁上段】
松(まつ)の山鏡(やまかゞみ)
松(まつ)山 鏡(かゞみ)といふは越後(ゑちご)の国。松の山家(が)にすむ人
そひなれし妻(つま)にはなれしが。息女(そくぢよ)ありしに。
此母むすめに死後(しご)に鏡一 面(めん)かたみに見よとて
残(のこ)しあたへけれ。うせし跡にて此 娘(むすめ)。かゞみに向(むか)へは
母の見え給ふ。母のじひ有 難(かた)き事よとかゞみに
むかひこひしがりしを。父此よしを聞ふしきに思ひ。
かゞみにむかひ見ればさはなし。山 家(が)のこと
なれば。かゞみなき里にて。此むすめ。はゝに
よくにたりしゆへ我むかへは母とがてんし
てけり父此わけをいひきかせ。ともに涙を
もよほしけり。誠に哀といふもおろか也
【右丁下段】
【見出し】「花ちる里【源氏香の図】【見出し語の上部左右に飾り鉤かっこ。全体を▢で囲む】
此巻は哥をもつて名とせるなり。
源氏廿四歳五月の事也。源氏
中川のわたりへ忍ひてありき給ふ道に。ちいさき家
にてことをしらべておもしろく引ならす音。みゝ
にとまりて。もと過給ひしことを思し召いで哥を
よみていれ給ふ〽をちかへりえそしのばれぬほと
とぎすほのかたらひしやとの垣(かき)ねに○此心は
をちかへりはいくかへりともなく心也。もとかよひし所
なれば。ずい分かんにんしてすぎんと思へとも。たえ
かたく思ふよと也。さてそれより入給ひて。昔(むかし)
いまの御物かたりありけるに。ほとゝきす又鳴けれは
よみ給ふ〽たちはなのかをなつかしみほとゝぎす
花ちるさとをたつねてそなく○此心は。たち
はなのかはむかしをしのばるゝもの也。この人
ならではむかしの事かたりあひなくさむへき人
なし。それをなつかしく思ひてたつねまいりたるは
ほとゝきすのたち花のかをなつかしかりてきて
なくとをなしこと也とたとへたるなり此花ちる
さとはきりつほのみかとの女御れいけいでんの御いもうと
三の君とてむかしけんしのあひ給ひし御方也
【左丁上段】
江口(ゑぐち)
江口といふは。川たけの【「ながれ」にかかる枕詞】ながれの女【遊女】なりしに
諸国(しよこく)一 見(けん)の僧(そう)江口の里(さと)に来り昔(むかし)かたりを思ひ
出。西行法師此所にて一 夜(や)の宿(やど)をかりけるに
あるじの心なかりしかば○世の中をいとふ迄こそかた
からめ。かりのやどりをおしむ君かなと古哥を吟(ぎん)し
ければ江口の君の幽霊(ゆうれい)ことばをかはし失(うせ)にけり
僧弔(そうとふら)ひをなしければ月すみわたる河水に遊女
川船に乗(のり)あまた出さほの哥を諷(うたひ)【注】あそぶてい
人間にあいじやく【愛惜】のはなれがたなき事をのべしらしめ
たちまちふげん菩薩とあらはれ。西のそらに
行給ひ六ぢん【塵】のまよひをしめし給ふ
【注 この字を「うたひ」と読むについてはコマ30の注を参照】
【左丁下段】
須磨(すま)
うきめ
かる
いせ
おの
あまを
思ひ
やれ
もしほ
たるてふ
すまの
うらにて