翻刻
【右丁上段】
入せ給ひてあんぢうし給ふ爰(こゝ)に温泉(うんせん)山
のかたはらより一人の病夫(びやうふ)来りて。こやのさと
ちかき山の中にふしゐたるを行基ふびんに
思召 飯食(おんしき)をほどこし給ふ其うへ病夫(びやうふ)がのぞみ
ゆへ海辺(かいへん)にをり立みづから魚をすくひたまひ
かた身をおろし煮(に)てあたへ給へば病夫したひに快(くはい)
気(き)をぞ得たり重て病人 迚(とても)の御しびに我(わが)五 体(たい)
身分(しんぶん)くづれたゞれ肉中(にくちう)に虫 生(しやう)し。かゆき事たへ
がたし願(ねかは)くはわが膿血(のうけつ)をねぶりむしをすふて
たべかしと申ける。行基是をもいとひ給はす
【左丁上段】
病夫が五たいすはせ給ふ其後 泉府(せんふ)を封(ふう)じ
石像(せきそう)の薬師(やくし)を作(つく)り奉り如法経(によほうきやう)を書うつし
温泉(うんせん)のそこにぞうづみ給ふ一 切衆生(さいしゆじやう)諸(しよ)びやう
めつぢよと誓祈(せいき)をたてかちくやうにいたる
までいと念比(ねんころ)に行(をこな)ひ給ふ行基菩薩 病夫(びやうふ)にあ
たへて煮(に)のこし給ふ半肉(はんにく)の魚をこやの池にはな
ち給へば水中(すいちう)にて金魚となり悦(よろこ)びをなす
事なのめならずさるによつてこやの池に住(すむ)
魚はみな片(かた)め也と云伝(いゝつた)ゆ此 魚(うを)を食(しよく)する者は
たちまち癩病(らいひやう)と成とかやそれ故くふ人なしかの
病夫(ひやうふ)が五 体(たい)のこらず吸(すは)せ給ふぞありがたき
其時ふしぎや此病人たちまち金色荘厳(こんじきしやうごん)の
仏体(ぶつたい)となり善(よき)かな〳〵我はこれ温泉(うんせん)山 正(しやう)
身(じん)の薬師(やくし)也汝が精誠(しやう〴〵)の道心(だうしん)をしらん為 方便(はうべん)
をもつて顕(あらは)れたりとさま〴〵仏縁(ぶつえん)の御しめし
まし〳〵汝は是よりつの国ありまのふもと
温泉(うんせん)の窟(くつ)に至(いた)り湯(ゆ)の山を開基(かいき)して末世(まつせ)
衆生(しゆじやう)の病苦(びやうく)をたすけよと示(しめし)給ひこくうに
失(うせ)させ給ふ行基(ぎやうぎ)大きに渇仰(かつがう)し給ひいそぎ
仏勅(ぶつちよく)に任せ温泉(うんせん)の窟(くつ)に至ゆの山かいきある
【右丁下段】
【見出し】にほふみや【源氏香の図】【見出し語の上部左右の角に飾り鉤かっこを付け全体を▢で囲む】
此巻は詞をもつて名とせる也 匂(にほふ)
みやはかほるの大将の事也。この
巻とまぼろしの間に雲(くも)がくれの巻名はかり有て
ことばはなし。是は源氏のかくれ給ふ所なれば。ふ
かき心ありて詞(ことは)なき也。この巻よりかほる大将の御
としをしるす。まぼろしの巻にて五才也。ことし
十四歳にて元服(げんふく)の事(こと)あり。六歳より十三まて
の事 雲(くも)がくれのうちにゆづりたり。此かほる大将は
げんじ四十八のとしの御子なり。かほるの御哥に
〽をぼつかな。たれにとはましいかにして。はじめもはても
しらぬわが身ぞ◯これは元来(ぐはんらい)かしはぎのゑもん
女三の宮にかよひて出来(でき)給ひし御子なりけれ共。
げんじはしらぬよしにて。我子(わがこ)のごとくいとをしみ
給へり。され共げんじの御子のやうにもさすがに
あらさるやうに思ひ給へば。たしかなることをしら
する人なきをうちわびて。おぼつかなとはの給へり。
これかほる一世のうへをもつて生死(しやうじ)のはじめも
なくをはりもなき道理(たうり)をよみあらはしたる
ふかき哥なり。巻の詞(ことは)にけんげうだいしのわか
身にとひけんさとりをもえてしかなとあるなり
【左丁下部】
紅梅(こうばい)
心(こころ)ありて
風の
匂(にほ)はす
そのゝ
むめに
まつ
鶯(うくいひす)の
とはずや
あるべき