翻刻
【右丁】
おぼしく左(ひだり)にあるものは則(すなはち)其(その)室(しつ)の墳墓(ふんぼ)なり
赤塚(あかつか)明神(みやうじん)祠 松月院(しようげつゐん)の門前(もんぜん)にある所の一堆(いつたい)の塚土(ちようしやう)に檟(えのき)二三 株(ちゆう)あり
其(その)下(もと)に小祠(しようし)を営(いとな)み白山(はくさん)権現(ごんげん)を勧請(くわんじやう)す土人(とじん)云()いふ此(この)塚(つか)の樹木(じゆもく)等(とう)に手(て)を
触(ふれ)る事ある時(とき)は必(かならず)祟(たゝりありとて)尤(もつとも)恐怖(きやうふ)せり按(あんずる)に上世(しやうせい)高貴(かうき)の人を葬(さう)
したる荒陵(くわうりよう)ならん
武蔵国風土記残編曰
武蔵国 豊島郡 荒墓郷 荒墓神社
大化二年丙午所祭猿田彦也神貢五十束三字田云云
《割書:按(あんずる)に赤塚(あかつか)は荒墓(あらはか)の訛(あやまり)ならん欤(か)東鑑(あづまかゞみ)に赤塚(あかつか)左近(さこん)同(おなじく)蔵人(くらんど)資茂(すけもち)といふ|人の名(な)を挙(あげ)たり此所(このところ)の人ならん欤(か)猶(なほ)尋(たづ)ぬべきのみ》
十羅刹女宮(しふらせつによのみや) 同所 北(きた)の方(かた)にあり真言宗(しんごんしう)常福寺(じやうふくじ)別当(べつとう)たり
田遊祭(たあそびのまつり)《割書:毎歳(まいさい)正月十三日 此地(このち)の農民(のうみん)当社(たうしや)に詣(けい)して後(のち)常福寺(じやうふくじ)に集会(しふくわい)し夜(よ)に|至(いた)りて興行(こうぎやう)す其式(そのしき)に曰(いは)く》
《割書:此(この)祭事(さいじ)は初(はじめ)餅(もち)を搗(つく)事(こと)凡(およそ)三斗あまりなり夫(それ)より搗所(つくところ)の餅(もち)を以(もつ)て数品(すひん)の農具(のうぐ)を|造(つく)り柄(え)あるものは陸英(にはとこ)といへる木(き)を以(もつ)て製(せい)し牛馬(うしうま)の鞍(くら)に至(いた)る迄(まで)も皆(みな)残(のこ)らず造(つく)り終(をえ)》
《割書:るの後(のち)其(その)具(ぐ)をたづさへ苗代(なはしろ)より始(はじめ)て苗(なへ)を挿(さし)秋(あき)に至(いた)り実(み)熟(じゆく)し刈取(かりとる)に至(いた)る迄(まで)の間(あいた)|耕(たがへしくさぎる)等(とう)すべて農業(のうぎやう)にかゝりたる事は一ツとして洩(もら)す事なく其(その)学(まな)びをなす》
《割書:尤(もつとも)鄙俗(ひぞく)のならはしといへども古(ふるき)を失(うしな)はざるを愛(あい)すべし是(これ)を勤(つとむ)る者(もの)に悉(こと〴〵)く名(な)あり|ヨナンソウイナンソウと称(しよう)するは老人(らうじん)の形(かたち)をなせり安女(やすめ)といふは婦人(ふじん)の假面(めん)を
をかけ》
【左丁】
《割書:太郎次(たろじ)といふは猿田彦(さるだひこ)の假面(めん)をかけたり尺太郎(しやくたらう)尺次郎(しやくじらう)と号(なつ)くるも何(いづ)れも鎌(かま)を|携(たづさ)へ出(いづ)るなりヨネホウと云は藁(わら)をもて製(せい)したる婦人(ふじん)の形(かたち)にて弁当(べんたう)をもたせたるを》
《割書:其(その)席(せき)へ引出(ひきいだ)し飲食(いんしよく)せり末(すゑ)に至(いた)り九万町の稲(いね)一万町は鎮守(ちんしゆ)へまゐらせ去年(きよねん)の稲(いね)は|蔵(くら)に積(つめ)今年(ことし)の稲(いね)は庭(には)に積(つ)めといふを終(をは)りとす》
《割書:按(あんする)に九万町の稲(いね)一万町は鎮守(ちんしゆ)へまゐらすといふは古(いにしへ)の井田(せいでん)の法(ほふ)によるならん|今(いま)当国(たうこく)近在(きんざい)の農民(のうみん)の里諺(りげん)におなうゐと云事(いふこと)あり其故(そのゆゑ)を問(とふ)に耕田(こうでん)の中(うち)尤(もつとも)》
《割書:中間(ちゆうかん)上々の稲(いね)を公(おほやけ)に奉(たてまつ)るをしか唱(とな)ふるといへるも前(まえ)にいへる井田(せいでん)の遺風(いふう)なるべき|欤(か)おなかゐ文字(もんじ)御中井(おなかゐ)に作(つく)るもよく井田(せいでん)の意(ゐ)にかなへり》
千葉家(ちばけ)古城趾(こじやうのあと)同所 西(にし)にあたれる岳(をか)をいふ土人(とじん)城山(しろやま)とよべり今(いま)官林(くわんりん)と
なり頂(いたゞき)に畑(はたけ)ありされども空塹(からほり)の形(かたち)抔(など)其侭(そのまゝ)に残(のこれ)り迃(て)城(まる)内城(ほんまる)と
覚(おぼ)しき所は殊(こと)に今(いま)も城壕(ほり)の形(かたち)ありて水(みづ)を湛(たゝ)へたり鎌倉(かまくら)大(おほ)
草紙(さうし)に康正(こうしやう)二年正月 成氏(なりうぢ)市川(いちかは)の城(しろ)を圍(かこ)む同(おなじ)く十九日 落城(らくじやう)
して実胤(さねたね)は武州(ぶしう)石浜(いしはま)へ落行(おちゆき)自胤(よりたね)は同(おなじ)く赤塚(あかつか)へ移(うつ)るとあれば
此所(このところ)は自胤(よりたね)の居城(きよじやう)なる事 必(ひつ)せり按(あんずる)に松月院(しようげつゐん)の開基(かいき)とする
所の自秀(よりひで)も此 自胤(よりたね)の氏族(やから)なるべし
《割書:按(あんずる)に松月院(しようげつゐん)鯨鐘(けいしやう)施財(せさい)の人名(じんめい)の中に当邑(たうむら)春日氏(かすがうぢ)の人 多(おほ)し土人(とじん)云(いは)く春日氏(かすがうぢ)は|千葉家(ちばけ)の末裔(ばつえう)なりとて殊(こと)に此地(このち)に其(その)氏族(やから)多(おほ)く今(いま)春日(かすが)平右衛門(へいゑもん)といへる》
《割書:人の家(いへ)に古文書(こもんしよ)ありといふ又 小田原記(をだばらき)に天正(てんしやう)元年十月 下旬(げじゆん)下総(しもふさ)関宿(せきやど)戦(たゝか)ひの|時(とき)武州(ぶしう)石浜(いしはま)の城主(じやうしゆ)千葉(ちは)次郎(じらう)討死(うつしに)す此時(このとき)石浜(いしはま)の千葉家(ちばけ)女子(によし)ばかり》