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コレクション: 学校教材発掘プロジェクト 5 江戸名所図会

江戸名所図会 20巻 巻之13 - 翻刻

江戸名所図会 20巻 巻之13 - ページ 39

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【右丁】  本城(ほんじやう)は河越(かはこえ)の松山(まつやま)にして今(いま)其(その)旧地(きうち)に一宇(いちう)を創立(さうりふ)して観音寺(くわんおんじ)と号(がう)するあり此(この)南畑(なんはた)にある  ものはとりての跡(あと)と覚(おぼ)しまた当寺(たうじ)より百歩(ひやくほ)あまり西(にし)の方(かた)に櫓下(やくらした)と字(あざな)する地(ち)あり方  十五 間(けん)斗(はかり)高さ一丈三尺あまりに土(つち)を築(つ)きたる所(ところ)あり土人(とじん)相伝(あひつた)ふ古(いにしへ)の櫓(やくら)の旧跡(きうせき)なりと  今(いま)は此所(このところ)に稲倉(いなくら)を置(おき)たり此下(このした)に堀(ほり)の形(かたち)少(すこ)しく残(のこ)りてあり其余(そのよ)にも空堀(からほり)の形(かたち)を存(そん)せり  故(ゆゑ)に此地(このち)の字(あざな)を城(しろ)とよべり  回国雑記 さゝいを立て武州(ぶしう)大塚(おほつか)の十玉か所へまかりけるにエ真いくたひか       うつりかはり侍(はべ)りけん其夜(そのよ)のとまりにて   山攀峻険海波瀾 到処多其行路難   踈屋終宵風雪底 凍雞嗼夢月西寒  道興准后   按(あんする)に此(この)紀行(きかう)に佐西(ささい)とあるは高麗郡(こまこほり)篠井(さゝゐ)の事を云なるべし又 或人(あるひと)云(いふ)大塚(おほつか)の十玉と   つゝけてかゝれたるは十玉 院(ゐん)古(いにしへ)水子(みづこ)村にあり水子村の小地名(しやうちめい)に大塚(おほつか)と云所あるを   もてかくはかゝれしならん欤(か)と云々  古文書(こもんしよ)六 通(つう)を蔵(さう)せり《割書:其(その)一(ひとつ)は文明(ぶんめい)十二年七月二十七日 清戸(きよと)年中(ねんぢゆう)行事職(ぎやうじしよく)の事(こと)申請(まうしうくる)|に任(まか)せ仰付(おふせつけ)らるゝ上(うへ)は門徒中(もんとちゆう)同 熊野(くまの)参詣(さんけい)旦那(たんな)以下 知行(ちぎやう)相(さう)》  《割書:違(い)あるべからずと云々又 其(その)一は文明(ぶんめい)十九年正月十八日の証文(しようもん)にして上に等(ひと)しき文義(ぶんぎ)なり|又 其(その)一は七月二十六日とはかりありて先年(せんねん)御門跡(ごもんせき)武州(ぶしう)へ下向(げかう)なし給ひし時(とき)忠節(ちうせつ)に依(よつ)て》  《割書:修学者(しゆかくしや)に准拠免(じゆんきよめん)ある由(よし)の証状(しようぢやう)なり又其一は文禄(ぶんろく)三年八月十五日 知行(ちぎやう)の証文(しようもん)也其一は|天正(てんしやう)七年八月七日 入東郡(につとうこほり)新倉郡(にゐくらこほり)年行事職(ねんぎやうじしよく)免許(めんきよ)の旨(むね)を記(しる)せし証文(しようもん)にして次(つぎ)に挙(あぐ)る所(ところ)の》  《割書:ものと共(とも)に六 通(つう)あり|》    武州之内前々水子ニ相立候十玉坊然及断絶今般改而    芝山ニ十玉坊可有再興之由尤ニ候幷入東新倉之郡    氏照領分年行事之事聖護院殿任御証文了    被申付候仍後日状如件 【左丁】        天正七年庚辰二月三日    氏照判                 十玉坊 難波田(なんはた)弾正(だんじやう)旧舘地(きうくわんのち)    十玉院(しふぎよくゐん)の地(ち)を云《割書:難波田(なんはた)今 南波田(なんはた)或(あるひ)は南畑(なんはた)に作(つく)る此地(このち)は|荒川(あらかは)と新川との両川(りやうせん)に挟(はさま)れて古(いにしへ)より》  《割書:水損(すゐそん)の患(うれひ)しば〳〵ありしかば終(つひ)に官府(くわんふ)の|免(ゆるし)を得(え)て文字(もんじ)をあらためたりしといへり》難波田(なんはた)弾正忠(だんじやうのちゆう)は扇谷(あふぎかやつ)上杉(うへすぎ)修理(しゆりの)太夫(たいふ)  朝興(ともおき)の家人(けにん)にして同国 松山(まつやま)の城(しろ)を守(まも)れりしが天文(てんぶん)十五年四月廿日  河越(かはこえ)の夜軍(よいくさ)に灯明寺口(とうみやうじくち)にて古井(ふるゐ)へ堕入(おちいり)て横死(わうし)せり《割書:小田原記(をたはらき)等(とう)には|灯明寺(とうみやうじ)に作(つく)れり》  《割書:今(いま)河越(かはこえ)の市中(しちゆう)に遊行(ゆぎやう)二世上人 真教坊(しんけうばう)開創(かいさう)せし古刹(こさつ)ありて|東明寺(とうみやうじ)と号(がう)するもの其(その)旧跡(きうせき)なり灯(とう)を東(とう)とす考(かんかふ)べし》弾正忠(だんじやうのちゆう)の墳墓(ふんぼ)と称(しよう)  するもの今(いま)水子(みづこ)村 日蓮寺(にちれんじ)といふにあり《割書:墓碑(ぼひ)に日蓮(にちれん)大居士(だいこし)とありて天正(てんしやう)|五年丁丑四月十六日と銘(めい)して没(ぼつ)》  《割書:卒(そつ)の年歴(ねんれき)大(おほい)に違(たが)へりもしくは|其(その)氏族(やから)の墳墓(ふんぼ)ならむ》 西蔵院(さいざうゐん) 同所 十玉院(しふぎよくゐん)より四町斗 西(にし)にあり本山派(ほんさんは)の修験(しゆけん)にして東廓(とうくわく)  山(さん)観音寺(くわんおんじ)と号(がうす)本尊(ほんそん)正観音(しやうくわんおん)は座像(ざざう)御長(みたけ)五寸八分 弘法(こうはふ)大師(だいし)の彫造(てうさう)  にして古(いにしへ)大師(だいし)此地(このち)に至(いた)り給ひし頃(ころ)霊夢(れいむ)に依(よつ)てこれを造(つくり)給ふと云  伝(つた)ふ《割書:此(この)堂宇(だうう)は釿造(てをのつく)りにして|今(いま)の製(せい)に異(こと)なり》応永(おうえい)年間(ねんかん)古谷(いにしへやつ)七郷(しちがう)の領主中(りやうしゆなか)筑後守(ちくごのかみ)