伊那市×みんなで翻刻

コレクション: 内藤家資料 (1) 2

藩翰譜(五) - 翻刻

藩翰譜(五) - ページ 33

ページ: 33

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【右丁】 《割書:夏目日記を按するに徳川殿 仰に 長田は 義朝を滅せし逆臣の名字なり|永井とあらためよとありしかは 永井と あらたむ 永井は 大江姓なれは》 《割書:大江の家の紋一文字に三星をもゆるさせ給ひ 御譜代の 御家人阿部|伊予守のむこに なされたり 永井もと因幡守大江の広元の二男なり》 《割書:出つ長田は平氏也長田入道か一《割書:に》《割書:兄|弟》親致は入道かはかりことに くみせさりしかは|子孫つゝかなくして長田を名のりし也と云々世につたふる所の 記に いはく》 《割書:平城天皇の皇孫備中守本に賜て大枝姓を給ひ其子参議音人大江と|あらたむ音人の七男式部権大輔千古か九代の孫大膳大夫広元鎌倉の》 《割書:右大将家より三代の将軍につかふこれ永井 毛利等か 祖也 広元か二男の|永井左衛門時広は 三浦若狭前司泰村の妹むこたるによりて 関東》 《割書:評定衆のよしにして随一の人也泰村か謀反の時その 徒党たるのよしにて|配流せられ仁治二年五月廿八日 配所に 卒すまことに時広罪なきに》 《割書:より其子甲斐守宗光めしかへされて越後国にして三千貫の地を給ふ|そのゝち北条ほろひ永井か子孫本領になつてつゐに三河の国に来り》 《割書:とゝまり平左【右の誤】ヱ門重元は家光か十一代の孫也と云々○按するに夏目か記の|ことゝなれは直勝もと永井にはあらす仰をかふふりあらためて称号》 《割書:せし所也世につたふることきは本姓大江にて永井か子孫後に長田と改て|本姓に改ける也とこれ両説也おもふにゆかりなきに永井と名のれとは》 《割書:仰られしいかさま 故あるへし又東鑑を考るに長井左衛門太夫につくる|永井にはあらす又時広か仁治二年に配所にて死せしといふ事あやまれる》 【左丁】 《割書:にや三浦若狭前司泰村かうたれしは宝治元年也 仁治二年より七年のち|の事也もしは宝治二年といふをあやまれるか長井か三浦かために唯せられ》 《割書:しかとも東鑑には見へす 毛利蔵人入道西河同き子息兵衛太夫光広等か|与党たりとのせたり新編纂図にも長井左衛門時広とのせ永井とは見へす》 《割書:又時広か男甲斐守といふは泰秀としるせり掃部助宗光【元の誤ヵ】と云は|広元の子にて時広かためには弟也時広か子といふ説不審也》天正十年 の春武田ほろひし後徳川殿安土に参給ひけれは御供の人々 の座をわかちて右大臣殿みつから配膳して酒たひし時直勝も 其座に請し入らるこれより徳川殿都の辺を御歴覧ありし うち織田殿御父子うたれたまひ徳川殿伊賀国にかゝつて 本国へ帰らせ給ふとて伊勢国より 御船にめされ三河国 大浜につかせ給ひしかは直勝か父直吉をのか家に入奉て 御酒すゝめまいらす直勝御供にさふらひて 凡路次の