翻刻
【右丁】
警衛おこたらす同十二年四月九日長湫の合戦に直勝
とし廿二歳敵の大将池田紀伊入道勝入か首取て見参
に入すなわち其賞を行わる北畠殿大に感し給ふて入道か
はきし太刀賜ひぬ《割書:徳川殿千石を給ひぬ入道かはきたる太刀は篠の雪|といふ○山中忠兵衛記に云 後に聞しに 勝入をは》
《割書:安藤彦四郎鑓にてつく永井伝八きつてふせ首をとる伝八手をは御方|のものゝきりし也彦四郎は猶すゝみて 池田庄九郎か首をとると 云々》
《割書:庄九郎とあるは 紀伊守か事也また彦四郎とあるは後に安藤帯刀と云|しか事也○又同し記に云 永井右近に千石の地を賜ふ信雄は五千石給》
《割書:へきよし仰られしに家康か家人にさほとの賞行ひし事いまた|候はすと仰られしと云々○謹て按するに信雄の宣ひし所は信長秀吉》
《割書:の風にていにしへにいふ功を尚ふといふもの伯術に出つ信長秀吉のほ|ろひたまひしも此道によれる所か徳川殿の仰られし所ふかき御心》
《割書:やありし神孫なかく世をしろしめし天下うこきなき事むべ|なるかなこれらを一言邦を興し亡すといふへき》そのゝち
東西御和睦なりて天正十八年の秋徳川殿関東へ移らせ
【左丁】
給ひし時武蔵国にして所領の地給ふ《割書:五千|石》文禄元年朝鮮の
事起りし時武蔵国にして所領の地賜ふ《割書:五千|石》文禄元年朝鮮の
事起りしかは徳川殿も肥前の名古屋におもむかせ給ふ太閤
徳川殿の御陣にならせ給ひ直勝を御覧しあれは誰とか
申すと尋給ひしに永井右近直勝と申す勝入か首取
たるは汝か双なき勇士御さんなれと仰られしをうらやま
ぬ人もなし同き四年二月廿日太閤直勝に 従五 位させ
豊臣の姓をゆるさる関ヶ原の合戦の時御所の御右に
陣して大将を承る上はみつからの高名はなし軍の掟よけれ
はとて其賞を賜る《割書:二千石を給ひその外に四千五百五石余を|三河国にて給ふこれは岡崎の士の給料たり》