伊那市×みんなで翻刻

コレクション: 内藤家資料 (1) 2

藩翰譜(四・上) - 翻刻

藩翰譜(四・上) - ページ 80

ページ: 80

翻刻

【右丁】 《割書:然るへからすとてとかくためらふうちに忠廣流刑に処せられしかは|それもかなはす一門の人々よきにはからふて 康勝か甥有りと披露》 《割書:しけれはめしつかはるへしとてわつかの禄賜りて二三年かほとを|絶しがくやしき事に思ひ世をのかれ入道して高野山にこもりゐしを》 《割書:備前少将光政かゆかりにつきて 備前国にむかへとりぬ|後に榊原杏廣といひしは此平十郎か事なり》 式部大輔忠次は大須賀出羽守忠政の男なり《割書:忠政すなはち故の|式部少【ママ】輔康政の》 《割書:嫡男 外祖の家つきし也 御家号を|たまはりて 松平と 名のりけり》忠次三歳の時親父出羽守 忠政にをくれいとけなかりしかと家継て横須賀の 城 賜ひぬ《割書:此時松平|五郎右【ママ】衛門と云》大坂の兵起りし時忠次幼少なれは横須賀の 城におりて手の者共をは参らすへしとあり忠次罷むかはんとて 既に打立しに御和睦になりしと聞へて道より引返す ふたゝひ兵起りし時も初のことく仰下されしかと忠次仰に 【左丁】 随ひ伊勢国御陣にはせつき 天王寺に到るこの年叔父 遠江守康勝卒して 子なきよし聞えしかは 忠次して 祖父康政か家つがせ給ひ従五位下式部少【ママ】輔に任せられしかは 大須賀の家は絶てけり正保元年七月十一日忠次陸奥白河城 にうつる《割書:十四万石もとは館林|十一万石を領す》慶安二年六月九日播磨国姫路の 城に移る寛文三年三月四位侍従になされ同四月将軍家 日光御社参御留守の事を仰蒙る 同き五年三月廿九日 年六十一才にして卒す其子 刑部太輔政房父につぎ 寛文七年五月廿四日 廿七歳にて卒し其子式部太輔 政倫三歳にて父につき同き年 越後国村上の城に移り