翻刻
東京日々新聞【横書き】 九百七十八号
長州小月村の京泊りと云ふ所の長谷川熊吉と云ふ
者の女房おすゑに去年十月ころより阿部(あべ)の清明(せいめい)とか
云ふ狐が乗(の)り移(う)ツたとて色〻妙な事をしやべり
散(ち)らし本年一月には火の雨が降(ふ)り火の風が
吹(ふ)きて世界(せかい)がみな黒土(こくど)に成るなどゝ
云ひ触(ふ)らしけれど近村の
人まで聞(きゝ)き伝へて
何(ど)うそ火災を免(まぬか)れ
る様(やう)にと祈祷(きとう)して京泊に
稲荷(いなり)の社
を建立(こんりう)して
小豆 飯(めし)や
油揚を備(そな)へて
鼠(ねずみ)の油煎だのお洗
米だのと噪(さわ)ぎ立けるが国中の大
評(ひよう)判となり参詣(さんけい)する者引も切らず
灸点を下して貰(もら)へば何(ど)の様(やう)な病気でも治ると云ひ或は
手の相を見て貰(もら)へば運(うん)の吉凶(よしあし)が別(わか)るなどと持て林して蟻(あり)の如く集(あつま)りけるが風と或る人
より此稲荷にはまだ官位がないから京都へ位を受けに行くが能(よ)いと云ふ相談が始まりて
商人仲間で何程かの金を調のへ本年一月中旬におすゑは亭主熊吉と隣りの金六が
女房おみすを連れ船にのりて出帆せしが備後の尾ノ道にて上陸して或る酒楼(たかや)にて路用を皆(みん)
な飲(の)んで仕 舞(ま)ひ上京する事も出来ず詮(し)方が無く成りて遂に帰る事に成りしが三人 倶(とも)に道々を
南無妙法蓮華経〳〵と唱(とな)へて人の門に立つゝ稍々(よう〳〵)芸州(けいしう)の広島まで帰(かへ)り来り暫(しば)らく ∞
【下段】
∞ 爰に逗留して亭主の熊吉を国元へ戻し路用の工 面(めん)をさせて帰国せしがおすゑ稲荷さまハ前に替らぬ
繁昌(はんじやう)なり此おすゑ様が広島を出る時に同国の瀬川(せがは)百丸と云ふ役者と同伴(どう〳〵)して船の中で乳栗(ちゝくり)あひ大恍(おほのろ)
惚(け)に成り国へ帰りて亭主に云ふ様私は男を禁(きん)じ身を清潔(きれひに)せねば罰(ばち)が当(あたる)とて別に家を借りて居て
毎晩百丸と密(ひそ)かに枕を並べて楽(たのし)みしと此おすゑ稲荷様も人の身の上吉凶 禍(くわ)福はいろ〳〵と
御しやべり成されて随分人を魅したれども神様も人間も恋(こひ)は思(し)
案(あん)の外と見えて百丸に魅されたは奇談(きだん)と申そうか愚談と
申そうか呆れ返(かえ)ります 蕙齋
芳幾
人形町 具足屋 渡邉彫栄