翻刻
いふともこの処女(むすめ)に。なか〳〵及(およ)ぶへきならず。と聞(きゝ)給ふより見(み)ぬ恋(こひ)に。
浮岩(あこがれ)給ひて順菴(じゆんあん)に。よく計(はか)らへといひつけ給ふに。首尾(しゆび)よきお請(うけ)はなしたれど
順庵(じゆんあん)この頃(ごろ)風邪(ふうじや)とて。引籠(ひつこ)み御前(ごぜん)へ出(いで)されば。音勢(おとせ)がことは先(まづ)それなり。吉光(よしみつ)
頻(しき)りにその処女(むすめ)を。見(み)まほしく思(おぼ)されて。日来(ひころ)お気(き)に入(い)りの穴沢佐栗(あなさはさくり)に。この
事(こと)を命(おほ)すれば。表向(おもてむき)から召(め)すとまうせば。手重(ておも)くして急(きう)にはまゐらず。箇(か)
様(やう)々々(かやう)になし給はゞ。今日(けふ)にも明日(あす)にも自由(じゆう)の事(こと)と。聞(きい)て吉光(よしみつ)歓(よろこ)び給ひ。さあらば
今(いま)から忍(しの)びの供立(ともだて)。准備(ようい)しやれと命(おほせ)をうけ。佐栗(さぐり)はそれ〳〵へ通達(つうだつ)し。その
刻限(こくげん)をぞ侯(まち)にける。こゝに道足(みちたる)は甘(うま)く計(はか)り音勢(おとせ)が初物(はつもの)をしめて心(こゝろ)に歓(よろ)ひ。
今日(けふ)は天気(てんき)も殊(こと)によし。近々(ちか〳〵)に御殿(ごてん)へあがらは。出歩行(であるき)も自由(じゆう)ならず。嵐山(あらしやま)も
盛(さか)りときけば。花見(はなみ)がてらの野遊(のあそ)びに。連(つれ)てゆかんと割籠(わりご)など准備(ようい)なしつゝ
音勢(おとせ)を伴(ともな)ひ供(とも)の男女(なんによ)も二三 人(にん)。忍(しの)びやかに立出(たちいで)て。跡(あと)には母(はゝ)の浅香(あさか)一人(ひとり)。縁(えん)さきを
明(あけ)ひろげ。咲乱(さきみだ)れたる桜海棠(さくらかいどう)。かなたこなたを飛(とび)めぐる。蝶(てふ)の姿(すがた)の優(やさ)しさを