翻刻
うちながめてありける処(ところ)へ動也(とや)〳〵人(ひと)の足音(あしおと)は誰(たれ)なるらんと伸(のび)あがる。
その生垣(いけがき)の透間(すきま)より。裡(うち)を覗(のぞ)きて一人(ひとり)の侍(さふらひ)〽モシ〳〵この辺(へん)に浅香(あさか)といふ寡婦(やもめ)の
住居(すまゐ)が在(ある)との事(こと)。知(し)つてなら教(をし)えてト聞(きい)て浅香(あさか)は不審顔(ふしんがほ)《割書:浅|》〽ハイ〳〵その
浅香(あさか)と申まするは私(わたくし)でございますが。何(なん)の御用(ごよう)で何方(どちら)から《割書:侍|》〽ハゝア其方(そなた)が浅香(あさか)ど
のか。サア分(わか)りました此方(こちら)へト会釈(ゑしやく)をすればその後(うしろ)に。立(たち)給ふは年(とし)の程(ほど)。二十(はたち)か
二十一二ばかり。色白(いろしろ)くして鼻筋(はなすぢ)通(とほ)り。眉(まゆ)は遠山(ゑんざん)の三日月(みかつき)の如(ごと)く。眼(め)清(すゞ)やか
に唇(くちびる)赤(あか)く。いかにも威(ゐ)あつて猛(たけ)からぬその風俗(ふうぞく)は公家(くげ)にもあらず武家(ふげ)と
も見(み)えぬ打扮(いでたち)は。綾(あや)の小袖(こそで)に二重飩子(にぢうどんす)の紺地(こんぢ)に雲龍(うんりう)を織出(おりだ)したる。被布(ひふ)の
やうなる物(もの)を着(ちやく)し。黄金造(こがねつく)りの小刀(ちさかたな)。指貫(さしぬき)袴(はかま)もめし給はず。かの侍(さぶらひ)が伺(ことば)を
聞(きゝ)て〽思(おも)ふにましたる住居(すまゐ)の風流(ふうりう)少(すこ)しは噺(はな)せるものとみえる。しかし少(すこ)し
の案内(あない)もせず。推(おし)かけ客(きやく)は困(こま)るであらう。其処等(そこら)はよう計(はか)らふて主人(あるじ)が
心(こゝろ)をつかはぬやうに。左様(さう)言(い)やれトいひなから切戸(きりど)を明(あけ)てしづ〳〵と入(いり)給ふに
上ノ九