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―第二章 変遷 一六
憲皇太后御東行の砌にも同家に御駐駕あらせらる。
伝馬所跡 今の郵便局のある所にして、俗に問屋場といへり。
主として駅伝の事を司り、市内坂下町、上伝馬、本町、札木、呉
服、曲尺手の六ヶ所に於て駅馬百足を負担したるものなり。
大手通 札木、呉服両町の間を直角に横ぎり南北に走れり。
旧藩時代所謂城廓の正門に通ぜし道路なり。明治四十四年三月改
修工事竣りて道幅拡張せられたり。今は電車通りとなれり。
往時大手通の西角
に高札所あり。又東
角には水野忠善時代
に参勤交代のため通
行する諸大名を接待
し、又は孝子義僕を
表彰するための対客所の設ありしといふ。
呉服町 呉服町は札木町の東に連り旧東海道筋に当り、札木
と共に現今繁華なる市街なり。
曲尺手町 呉服町を北に屈曲すれば即ち曲尺手町にして、此町の中央より北折せる道路は即ち以前城廓に通じたるも
【図の説明】札木町通
【図の説明】大手通古図(貞享年間)
のにして、所謂曲尺手門のありし所なり。
鍜冶町 曲尺手町の東にあり。古来鍜冶職軒を並べ、吉田鎌の名、遠近に聞へたりしが、近来漸くその跡を絶ちて、
商家と変ずるに至れり。町名の起原は初め牧野古白が今橋城を築くに当り、牛久保より鍜冶
職を移して、今の八町辺に住居せしめ、輝政の城地拡張によりて、元鍛冶町(今の吉屋町)
に移し、更に松平忠利の時代に至りて、今の地に移し、此名称を用ひたるものなりといふ。
下町 鍜冶町の東に連り旧
藩時代には町の中央より南北に
通ずる道路ありて、その東側に
塹壕あり、その外側の出入口に
当り城下東口の惣門ありたり。今は塹壕も埋め立てられ、昔
時の状態を知るに由なし。
西新町、東新町 西新町は旧時今新町といひし処に
て東総門の外に在り水野忠清時代初めて家居を許されたる
処なり。東新町は西新町の東につづき旧時元新町と称せし処なり。
瓦町 東新町に接し東海道に当る、領主小笠原長矩の時代、開発せし土地なりといふ。
向山町 市の南端一帯の高地にして市街を一眸に集め眺望最も佳なり。往時は全く菜園麦圃の地なりしが明治四十一
年工兵隊の設置と共に人家漸く繁く耕地整理の地区に属せるが完成後は住宅地として発展を見るに至るべし。東方の低地
【図の説明】曲尺手町
【図の説明】下町惣門古図(貞京【享か】年間)
【図の説明】鍜冶町通
―第二章 変遷 一七