← 前のページ
ページ 26 / 216
次のページ →
翻刻
―第二章 変遷 一八
に溜池あり、向山の大池と称す。瓦町の地内に跨れるを以て瓦
町の大池とも称す。承慶三年小笠原忠知の時代郡代長谷川太郎
左工門の考案により築造せるものなり。
三の輪町 向山の東方にあり。所謂旧東海道の出外れにし
て亭々たる老松道路の両側にあり。旧幕府時代参勤交代の昔を
忍ばしむ。而して其東端は飯村に接す。
飯村町 飯村は東街道吉田と二川の中間に位し、往時は懸
茶屋などあり。故人の紀行文集にも屡見ゆる処にして沿道の松
並木は今も尚ほ其面影を存せり。
岩田町 三の輪を出て、東北に進めば岩田、岩崎等の農村部落あり。全く市街の面目を認むるなく、村翁野媼農桑に
親しみ、田畝に耕し麦隴菜圃相連る所、全く紅塵の外にあり。岩崎は市の東北端
をなし。元手洗と上岩崎とを合せしものにして明治二十二年豊岡村に併合せられ
更に、仝三十九年豊橋町に合併して市の一部をなすに至れり。而して此地は今を
去る七百年乃至九百年前頃には東海道に当り、頼朝が此地を通行せしことなど伝
説に見る処なり、今は依然たる農村部落をなせり。
東田町 岩田を経て西に向へば東田の地に到る。此地は極めて古き歴史を有する処にして、明治十一年以前、仁連木
と呼び、往昔は之を薑郷と称して今も其字名を存せり。
【図の説明】工兵第十五大隊
【図の説明】向山大池
【図の説明】旧東海道松並木 (三ノ輸【輪の誤植】附近)
其後何時の頃よりか此地に仁連木の別名起り遂に村名に移りしなり。仁連木城址今に存せり。明治四十三年八月東田の一
部二反田方面に遊廓を移転してより忽ちにして歌舞管絃の不夜城を現出するに至れり。
これより東北に進めば東田の一部上地あり。上地の西に西脇あり。更に東南に舟原あり。而して所謂東田と称するの地
は地域広く此地幾多の小字に区分せらる。
飽海町 東田に接し市の東北八名郡に通ずる要街にして、
伊奈街道の基点なり。八名方面への唯一の出入口として知ら
れたり。
飽海の名は古来此地方一帯の称なりしが、後今橋の地名生
じてより、一部分に限らるゝに至りしものの如し。而して牧野
古白が今橋築城の当時は、尚ほ此方面を正門とし、元亀、天正
の頃にありても、大手門たりしこと古記に存する所なり。
旭町 飽海より南すれば旭町に達す。一番丁より五番町に
至る。此地は旧藩時代東組の下級の士分又は徒卒の住宅地にして、此辺の家屋今は全くその面目を一新して軍人、官吏、
教員等の住宅を構ふるも多し。
八町通り 西八、中八、東八の三ヶ町に分れ、大手通は之と丁字形をなせり。此地旧幕時代は士族屋敷のありたる所
にして、今尚昔時の面影を忍ばしむるものあり。斯くて八間通り東端より北折せるものは即ち旧道にして、昔は茲に野牛
門あり。此門は新町口より城廓内に入る第二門にして、池田輝政が城地拡張の際、長篠城より移築せるものなりしと伝ふ。
【図の説明】二連木城趾
【図の説明】東田遊廓
―第二章 変遷 一九