翻刻
娘(むすめ)を伴(ともな)ひ、そが家許(いへもと)まで送(をく)りけるに兼(かね)て娘(むすめ)が宿(やど)なる金物屋(かなものや)
にては、今(いま)までも娘(むすめ)の帰(かへ)り来(こ)ぬ故(ゆゑ)、正(まさ)しく水死(すいし)せし事(こと)ならん
と一家親族打集(いつけしんぞくうちつど)ひ悲嘆(ひたん)の涙(なみだ)に暮(く)れ居(ゐ)たる折(おり)からにて其喜(そのよろこ)
び譬(たとへ)ん方(かた)なく、斯(かゝ)る恩徳(おんとく)に報(むく)ひんには何物(なにもの)をか以(もつ)てせん、若(も)
し所望(しよまう)せらるゝ品(しな)もあらば遠慮(ゑんりよ)なくあかされ玉(たま)へといひ
けるに、其男固(そのおとこもと)より報(むくひ)を求(もとめ)んが為(ため)に救(すく)ひ参(まゐ)らせたる事(こと)なら
ねば、さして何品(なにしな)も望(のぞむ)ものとては無之(これなし)といひけるに、然(しか)らば
不日(ふじつ)の中此方(うちこのかた)より迎(むか)へ申(もを)すべしとて此日(このひ)は彼男(かのおとこ)をかへし
おき、扨両三日(さてりやうさんにち)を経(へ)て親類(しんるい)一|族打集(ぞくうちつど)ひ最(い)と盛大(せいだい)なる宴(ゑん)を開(ひら)
きて彼(か)の男(おとこ)を迎(むか)へ、一同(いちどう)に当日(とうじつ)の恩義(おんぎ)を謝(しや)し今(いま)より貴殿(きでん)を
娘(むすめ)が伯父(おぢ)の列(れつ)に数(かぞ)へ入(い)れ、長(なが)く親(した)しみを結(むす)ぶべしとて、種々(しゆ〴〵)
猶之(なほこれ)を饗応(きやうおう)し、多(おゝ)くの金貨(きんくわ)をも贈(おく)りしといふ
○因果覿面(ゐんぐわてきめん)
本郷(ほんごう)に住(す)める麹屋(かうじや)某といへる者(もの)、此日祭見(このひまつりみ)んとて両国(いやうごく)の此(こな)
方(た)なる米沢町(よねざはちやう)より村松町(むらまつちやう)を往(ゆ)き過(す)ぎける途中(とちう)、不図(ふと)懐中(くわいちう)せ
し紙入(かみいれ)を袋(ふくろ)の侭(まま)盗賊(すり)の為(ため)に奪(うば)はれ紙入(かみいれ)の中(なか)には金三両二(きんさんりやうに)
歩二朱(ぶにしゆ)ばかり入(い)れありし事故(ことゆゑ)、彼男(かのおとこ)は甚(はなは)だ不快(ふくわい)に思(おも)ひ、今日(けふ)
の祭(まつり)さへ見(み)る心地(こゝち)せずして早々我家(さうさうわがや)に立帰(たちかへ)りたりしが、扨(さて)
夕方(ゆふがた)に至(いた)り人々(ひと〴〵)の語(かた)るを聞(き)けば、今日(けふ)永代橋崩落(ゑいたいはしくつれをち)て夥多(あまた)の
人死(ひとしに)ありしと、彼男之(かのおとここれ)を聞(き)き、扨(さて)は我(わ)れ彼(か)の紙入(かみい)れ故早々家(ゆゑさう〳〵いへ)
に立帰(たちかへ)りて危(あやふ)き命(いのち)を拾(ひろ)ひたり、我(わ)が命(いのち)は三両二歩二朱(さんりやうにぶにしゅ)の金(きん)
にて、購(あがな)ひ得(ゑ)たるも同様(どうやう)にこそと大(おほひ)に喜(よろこ)び居(お)りしが、其翌日(そのよくじつ)
に至(いた)り其筋(そのすぢ)より本郷(ほんごう)に住(す)める何(なに)の某(なにがし)、昨日(さくじつ)永代橋断落(ゑいたいばしだんらく)の砌(みぎ)
り水中(すいちう)に陥(おちい)りて相果(あいはて)たれば、家内(かない)の者共(ものとも)早々|亡骸(なきがら)を引取(ひきと)る