翻刻
かれたれば折角兼(せつかくかね)てより約束(やくそく)したる彼(か)の女(をんな)と今日(けふ)の祭見(まつりみ)
に出掛(でかけ)る事(こと)さへ出来(でき)ずして、只一人家(たゝひとりいへ)にありしが、昼前(ひるまへ)の頃(ころ)
に、至(いた)り永代橋崩落(ゑいたいばしくづれをち)しと、人々言(ひと〴〵い)ひもて通(とほ)りけるに、藤兵衛(とうべゑ)も
打驚(うちをとろ)き、女房(にようぼう)の安否心許(あんぴこゝろもと)なく思(おも)ひければ、人(ひと)を遣(つかは)して、そが様(やう)
子(す)を見(み)せしめたりしに果(はた)して小厠(こもの)は命助(いのちたす)かりしかとも妻(つま)
は水(みづ)に陥(をちい)りて死(し)したりしといひけるに、打驚(うちをどろ)き早速亡骸(さつそくなきから)を
引取(ひきとり)しが、流石(さすが)に今(いま)までは憎(にく)かりし妻(つま)も今斯(いまかゝ)る果敢(はか)なき最(さい)
後(ご)を遂(とげ)たる状(さま)を見(み)れば、又不覚(またそゝろ)に哀(あはれ)を催(もよふ)して其夜(そのよ)は終夜夜(しうやよ)
伽(とぎ)に明(あか)したりしが、茲(こゝ)に甚(はなは)だ不思議(ふしき)といふは、彼(か)の女房(にようぼう)が未(いま)
だ死(し)したる事(こと)をば、露知(つゆし)らざる隠(かく)し妻(づま)の枕(まくら)の下(もと)に其夜(そのよ)本妻
の姿(すかた)あり〳〵と立現(たちあら)はれ、羨(うら)めし気(け)なる面容(おもゝち)して寐たる此(こ)
方(なた)を打詠(うちなが)め、果(はて)はさめ〴〵と泣(な)き居(ゐ)けるにぞ隠妻(かくれづま)は之(これ)を見(み)
るより「アツ」と叫(さけ)び、家(いへ)の者(もの)に救(たす)けられて漸(やうや)く此夜(このよ)は明(あか)した
りしが、其後又本妻(そののちまたほんさい)が一七日(ひとなのか)に当(あた)る日(ひ)の黄昏頃京橋(たそかれごろきやうばし)の方(かた)よ
り幾千(いくせん)といふ数(かつ)を知(し)らざる夥多(あまた)の蜂群(はちむらが)り来(きた)りて彼(か)の手拭(てぬぐひ)
店(みせ)の軒下(のきした)に集(つど)ひければ、店(みせ)の者(もの)ども打驚(うちをどろ)き手々(てんで)に箒(はゝき)、棒抔持(ぼうなども)
ち出(い)で漸(やうや)くにして払(はら)ひ出(いだ)せしが、之(これ)も亦亡(またな)き本妻(ほんさい)の魂(たま)にや
ありけんと、近辺(あたり)の人々私(ひと〴〵ひそか)に語(かた)り合(あ)ひぬといふ(右芝の住山
陽堂の記録)
○翁(おきな)の亡霊(ぼうれい)
神田下駄新道(かんだげたじんみち)に住(す)める魚屋(さかなや)某なる者此日(このひ)の祭(まつり)を見(み)んとて
妻子(つまこ)を連(つ)れ、我(わ)が家(や)を立出(たちいで)しが妻(つま)は途中(とちう)より些(ちと)ばかりの忘(わす)
れ物(もの)してけりとて、ひきかへしたれば某|一人其子(ひといそのこ)を連(つ)れて
深川(ふかがは)へ趣(をもむ)きしが、橋落(はしをち)し時其子(ときそのこ)と共(とも)に水中(すいちう)に陥(をちい)りたり、さは
現代語訳
(前ページより続く)女房に先に出かけられてしまったため、せっかく前から約束していたあの女(囲い妻)と今日の祭り見物に出かけることもできず、ただ一人家にいたところ、昼前ごろになって、永代橋が崩れ落ちたと、人々が口々に言いながら通り過ぎていった。藤兵衛もひどく驚き、女房の安否が気がかりになったので、人を遣わしてその様子を見させたところ、果たして小僧は命が助かったものの、妻は水に落ちて死んでしまったということだった。藤兵衛は大いに驚き、早速亡骸を引き取ったが、さすがに今までは憎らしく思っていた妻も、今こうしてはかない最期を遂げた様子を見れば、思わず哀れさが込み上げてきて、その夜は一晩中夜伽をして明かした。
ここで甚だ不思議なことには、あの女房がまだ死んだことを露ほども知らない囲い妻の枕元に、その夜、本妻の姿がありありと立ち現われ、恨めしそうな面持ちで、寝ているこちらをじっと見つめ、やがてさめざめと泣いていたのである。囲い妻はこれを見るや「あっ」と叫び、家の者に助けられて、ようやくその夜を明かした。
その後また、本妻の一七日(初七日)にあたる日の夕暮れ時、京橋の方から幾千とも数え知れない夥多くの蜂の群れが来て、あの手拭い店の軒下に集まったので、店の者どもは大いに驚き、てんでに箒や棒などを持ち出して、ようやくにして払い出したが、これもまた亡き本妻の魂ではなかろうかと、近隣の人々がひそかに語り合ったということである。(右は芝の住・山陽堂の記録)
○翁の亡霊
神田下駄新道に住む魚屋の某という者が、この日の祭りを見ようとして、妻子を連れて我が家を出発したが、妻は途中でちょっとした忘れ物をしたといって引き返したため、某は一人その子を連れて深川へ向かったところ、橋が落ちた時にその子と共に水中に落ちてしまった。さて、
英語訳
(Continued from previous page) Since his wife had gone out ahead of him, Tōbei could not even set out to see the festival with his mistress, as they had long planned, and remained alone at home. Around midday, people passing by were saying that Eitai Bridge had collapsed. Tōbei was greatly alarmed and, worried about his wife's safety, sent someone to find out what had happened. It turned out that the young shop boy had survived, but his wife had fallen into the water and drowned. Tōbei was deeply shocked and quickly retrieved her body. Although he had until now found her disagreeable, seeing her come to such a sudden and pitiful end moved him to unexpected grief, and he spent the entire night keeping vigil over her remains.
What was most remarkable, however, was this: that very night, the figure of the lawful wife appeared vividly at the bedside of the mistress — who had not yet heard any news of the wife's death — wearing an expression of sorrowful resentment, gazing steadily at the sleeping woman, and finally weeping bitterly. The mistress cried out "Ah!" at the sight, was helped by the household servants, and barely managed to get through the rest of the night.
After that, on the day of the wife's first seven-day memorial, at dusk, an uncountable swarm of bees came from the direction of Kyōbashi and gathered under the eaves of that hand-towel shop. The people of the shop were greatly startled and rushed out with brooms and sticks, barely managing to drive the bees away. People in the neighborhood whispered among themselves that this too must have been the spirit of the deceased lawful wife. (The above is from the records of Sanyōdō of Shiba.)
○The Ghost of the Old Man
A fishmonger living in Kanda Geta-shindō set out from his home with his wife and child to watch the festival that day, but his wife turned back partway, saying she had forgotten something. The man went on alone to Fukagawa with his child, and when the bridge collapsed, both he and his child fell into the water. Now,