翻刻
事(こと)なり難(がた)し、若(も)し此侭落(このまゝを)ちたらんには如何(いかゝ)せんと、種〻心(さま〴〵こゝろ)の
中(うち)に工夫(くふう)を施(こ)らし、衣(きもの)の裾(すそ)などかゝげんとせしかども、扨又(さてまた)
手(て)だに裾(すそ)へやる事能(ことあた)はざる位(くらゐ)の込(こ)み合(あ)ひなれば、それさへ
協(かな)はず漸(やうや)くに押(おし)すくめられたる手(て)を前(まへ)に下(く)だして裾引(すそひツ)か
らげ、又刀(またかたな)の下緒(さげお)をときて大小(だいせう)をば帯(おび)によく〳〵|結(むす)び付(つ)け
手拭(てぬぐひ)を後(うしろ)より胸(むね)に廻(まは)して「シカ」と懐(ふところ)を堅(かた)め今(いま)や落(を)つるかと
待(ま)つ程(ほど)に、又我知(またわれし)らず五六|間(けん)もせりやられしと思(おも)ふ頃(ころ)、果(はた)し
て橋(はし)はメリ〳〵〳〵と落(をち)たりしかば、兼(かね)て覚悟(かくご)をなし居(ゐ)たる
事故(ことゆゑ)人|其身(そのみ)はより先(さき)へと水中(すいちう)に飛入(とびい)りしが、深(ふか)さ十間|計(ばか)り
も沈(しつ)むと覚(おほ)へたりしと、夫(そ)れより、いでや泳(をよ)ぎ上(あが)らんとしけ
るにあひにく足(あし)を泥(どろ)の中(なか)に踏(ふ)みこみ、頓(すぐ)にも抜(ぬ)けざりけれ
ば、如何(いかゝ)せんと身(み)を苦悶(もだゆ)る折(おり)しも、跡(あと)より落(を)ち来(く)る人(ひと)は恰(さなが)ら
雨(あめ)の降(ふ)るが如(ごと)くなりけるにぞ、幸(さいは)ひ我(わが)が上(うへ)にも落(を)ち来(き)たる
者多(ものおほ)かりければ、是(これ)を押(おし)ふせ力(ちから)にして足(あし)を抜(ぬか)んとしたるが
未(いま)だ抜(ぬ)けず、因(よツ)て三人まで押(おし)ふせ漸(やうや)くに足(あし)を抜(ぬ)き泳(をよ)ぎ出(いで)ん
としたる時(とき)、又々左右(また〳〵さいう)の両脇(りやうわき)より手(て)となく足(あし)となく取縋(とりすが)る
者(もの)の多(おほ)かりけるに、今(いま)は払(はら)ひ去(さ)らん術(じゆつ)も尽(つ)きて、殆(ほと)んど溺(をぼれ)ん
としたりけるに、又一層(またいツそう)の力(ちから)を励(はげま)し腰(こし)なる刀(かたな)を抜離(ぬきはな)して、寄(より)
来(く)る者(もの)を払(はら)ひけるに、漸々(やう〳〵)と辺(ほとり)を去(さ)れば此間(このひま)にと泳(をよ)ぎける
中(うち)、恰好崩(てうどくづ)れたる屋根船(やねぶね)の屋形(やかた)のみ流(なが)れ来(き)たれば、これ幸(さひは)ひ
と取付(とりつ)きて遂(つい)に陸上(りくじやう)に上(のぼ)りしといふ(右二話理老漁の記録)
○貪欲老母(どんよくらうぼ)の怨言(うらみごと)
麻布飯倉(あざぶいゝぐら)の片辺(かたほと)りに住(す)める老(おい)たる夫婦(ふうふ)の者(もの)あり、常(つね)に三緑(ぞうじよう)
山(じ)の裏門(うらもん)に出(いで)て山(やま)の芋抔取(いもなどとり)ひろげ、之(これ)を売(う)りて其日(そのひ)その日(ひ)