翻刻
児(ちご)我(わか)寵(てふ)の衰(おとろ)へたるを恨(うら)み此(この)淵(ふち)へ身(み)を投(なけ)て
死(し)したりと云(い)ふ爰(こゝ)を遡(さかのぼ)れは布滝(ぬのたき)と呼(よ)へる
あり一条(いちじやう)に直流(ちよくりう)して布(ぬの)を引(ひく)に異(こと)ならす是(これ)
又(また)壮観(さうくわん)なり大網(おおあみ)より福渡(ふくわた)戸 迄(まで)行程(みちのり)廿五六
町(ちやう)其(その)間(あひた)に洞門(どうもん)あり長(なか)さ十五六 間(けん)穴(あな)の大(おほい)さ
四 間(けん)許(ばか)り之(これ)に入(い)れは盛夏(せいか)猶(なほ)膚(はた)に粟(あわ)を生(しやう)す
曽(かつ)て聞(き)く関谷(せきや)より塩原(しほばら)迄(まて)馬道(うまみち)を開(ひら)きたる
は安貞(あんてい)二 年(ねん)の事(こと)なりとあら〳〵 指(ゆび)を折(を)れは
六百五六十年に及(およ)べり而来(じらい)歳(とし)を積(つ)み月(つき)を
累(かさ)ね道筋(みちすじ)を撰(えら)みて開鑿(かいさく)修繕(しうせん)に力(ちから)を尽(つく)すと
雖(いへと)も三四 里(り)の間(あひた)は嶺(みね)を越(こ)へ谷(たに)を渉(わた)り斜道(しやどう)
旋(めく)りて羊腸(ひつじのはらはた)の如(こと)く其(その)嶮悪(けんあく)譬(たと)ふるに物(もの)なし
就中(なかんつく)洞門(どうもん)の上(うへ)に方(あた)りて左靭(ひたりうつぼ)と云(い)へるは一(いつ)
夫(ふ)万人(ばんにん)を支(さゝ)ふる所(ところ)にして危(あや)ぶむばかりの
桟(かけはし)を渡(わた)し巓(いたゞき)を望(のぞ)めは眼(め)眩(くら)み崖(がけ)を覗(のぞ)げは足(あし)
震(ふる)ふ「桟や命をからむ蔦かつら」と芭蕉(ばせを)翁(おきな)か