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コレクション: STAGE2

土佐古今ノ地震 - 翻刻

土佐古今ノ地震 - ページ 14

ページ: 14

翻刻

    同   崎浜村は船待の名本の出川原迄 兎に角当日の地震津浪は記録さへ伝はれば猶其外の惨况を詳かにするを得べき筈なるも材 料欠乏してこれが明日の研究をなすを得ざるは遺憾なりといふべし然れど上文記録の一部 分地方死者の数を算する時は其の割合意外に多くして此を以て他を推す時は全体の被害区 域に於ける損害の高は葢軽々に看過すべからざるものならむ 阿闍梨暁印記録に曰く  東を受け南を受けたる国は大潮入り西を受け北を受けたる国には心動地震斗にして潮入  不是も未来永々の言伝に書置くものなり 又吾川郡神谷村の庄屋家記といふ年代記に左の文あり  慶長五子年一豊公御入国浦戸へ御入城云々四年目当城へ御移  同 九辰年大風津浪入 偖は当日の時変は主として津浪の禍大に人民の死亡は多くこれによりしかばかゝる末世の 言伝といひ或は旧家の日記に其記載を留めしものならん但【傍点始】其東南に面する国は地震の上津 浪入西北に面する国は津浪入らずして地震のみを感ぜしとは本地震の性質方向等を研究す るに必要の材料なれ【傍点終】ど猶当時関東諸国の記録を調査せざれば何共其仮定だも下し難しとな す然れど此地震津浪の災は当時の記録に其区域十余国に亘れる記載あれば確かに之を以て 本邦大震の一と算するは敢て早計にあらざるべし       (丁)  紀念物 土佐東部の国境に近き阿波国海部部に鞆浦と呼ぶ一村落あり村中に立石とて高丈余の紀念 碑石あり該地震の事に関し末世の戒とて銘文を刻すといふ三災録に其写あり曰く  敬白右意趣書、人皇百十代御宇、慶長九甲辰年十二月十六日、亥  刻、於_レ常、月白風寒、凝_二行歩_一時分、大海三度鳴、人々巨驚、拱_レ手処、逆浪  頻起、其高十丈、来七度、名大潮_一、剰男女、沉_二千尋底_一百余人、為_二後代言  伝_一奉与之各平等利益者必也、   ( 訓点句頭は便宜施こす所、、末文又誤字あるに似たり ) 余前年彼国漫遊の折親しく右の鞆浦に至り該紀念碑の事を以て古老に尋ねしに今所在を失 ひしといふ葢此辺其後宝永安政の両度に大震海嘯を感じたれば所謂桑滄陵谷の変これが行 衛を失ひたるならん誠に惜しむべしとなす依て暫く後考の為め之を記し置くといふ     ●第三 宝永四年地震      ( 甲)  総 説 慶長地震の後一百〇三年を経て東山天皇宝永四年十月四日土佐国第三回の地震あり是れ恐 くは【傍点始】本邦記録上【傍点終】に見ゆる【傍点始】最大地震【傍点終】にして其の震域は殆と日本南半部に亘り西国、中国畿内