翻刻
に逃登りければ昔の如く人の損は無りしなり惟中に船に乗り沖に出でんとして逆巻浪に
覆され三十余人死たり痛ましき事なり何なれば衆に洩て斯はせし皆云に昔語の中に山に
登り落かゝる石に打れ死し沖に出たる者恙なく帰りしと云事の有を聞誤認しゝもの也早
く出て沖にあるは知らず其時に当りて船出す事は難かるべし誡むべき事にして将昔の人
は地震すれば迚津浪の入る事を弁へず浪の高く入り来るを見るよりして逃出たればおく
れてかくの如き難に逢へり哀にも又悲まざらんや地震すれば津浪は起るものと思ひて油
断はすまじき事なりされどゆり出すや否浪の入るものにあらず少の間はあるものなれ
ばゆりの様を見斗らひ食物衣類等の用意して扨石の落ざる高所を撰びて遁るべしさり迚
高山の頂迄登るにも及ばず今度の浪も古市神母の辺は屋敷の内へも入らず昔伊勢が松に
て数人助かりしといへば津浪とて左のみ高きものにも非ず是等百五十年来一度迄の例し
なれば考にも我べきなり今茲此営をなすの印且後世若斯る折に逢ん人の心得にもなかれ
しと衆議して石を立其事をしるさん事を余に請ふ因て其荒増を挙て為に書き付くもの也
安政三年丙辰十月四日 古 谷 尉 助 識
一読まことに地震と津浪との関係を明かし避難の手引をなせる主旨は懸切を極めたりとい
ふべし殊に須崎浦は当時は漁村にして愚人愚婦の集まるところ六ヵ敷漢文を避けて平易の
平仮名文を用ひしは一層其用意の深きを見るに足るなり
●第四 安政元年地震
(甲) 総 説
宝永四年の後一百五十余年を経て孝明天皇安政元年甲寅十一月五日に至り土佐国又第四回
の大地震あり此時の地震も亦土佐一国の地震にあらず日本西南半部の大地震なりき特に其
前日なる十一月四日には東海の諸国又大地震海嘯を感じ二日間引続きての天災に西南一体
の国々は残る所なく災害を被ふりしは寅に厄運の極なりしとやいふべき
但其両日の震災は関係の区域多少相異なりて四日は東部に強く西部に弱く五日は東部に緩
く西部に急なりしが如し即土佐国の如き四日の地震津浪は差して著しき感受なかりしと見
へ十分の記録なく又之に反し東国の如き五日の地震津浪は其噂余り高からざるが如し
然れど又一般の記録によりこれを徴すれば此年代は白鳳宝永の両年度と等しく地震天災の
厄年にして已に其年の六月中にも近畿の地大震を感じ越て又明年即安政二年十月二日には
江戸の大地震ありき然も本書は主として土佐地震を伝ふるを目的とすれば其前後の一般地
震の状況は唯概略を記してこれが参考に供するに止むべし
(乙) 土佐大震前の地震
安政元年は地動の多かりし時代と見へ其年六月十四日近畿の地、大地震あり記録の伝ふる
所によれば其損害の略左の左し