翻刻
五穀(ごこく)の尊(とふ)とき事|生涯(せうがい)わするべからすと泪(なみだ)を流(なが)し
て語(かた)りける彼辺(かのへん)にては仁慈孝友(じんじこうゆう)の行(おこな)ひ有(あり)し事(こと)は
露斗(つゆはかり)も聞(きか)かざりしか此男(このおとこ)の伯父(おぢ)のみ珍敷(めつらしき)人心を具(ぐ)
足(そく)せり《ルビ:と|ト》言(いふ)べし其頃(そのころ)人を喰(く)ふ事は常(つね)のことになりて
老人(ろうじん)の肉(にく)は味(あぢは)ひなし婦人小児(ふじんせうに)は和(やわ)らかにして味(あじは)ひも宜(よろしき)
き抔(など)みな人肉(にんにく)を喰(く)ひ覚(おぼへ)て評(ひやう)ずる事になれり依之(これによつて)
人を殺(ころ)すこと家(いへ)を焼事(やくこと)などたやすき事に覚(おぼへ)へ況(いわん)や
人の物(もの)を奪(うば)ひ掠(かすむ)ること抔(なと)は誰恥(たれはぢ)るものもなきなれは
其余風(そのよふう)今に残(のこ)り盗賊(とうぞく)の沙汰(さた)のみ多(おゝ)くて夜(よ)なとは
通行等安(つうこうとうやす)き心もなかりし彼辺(かのへん)にては食物不自由故(しよくもつふじゆふゆへ)
色〻(いろ〳〵)の草(くさ)を多(おゝ)く食(しよく)せり何草(なにくさ)と言差別(いふさべつ)なく一ツ鍋(なべ)
に苅(かり)入て食(しよくし)けるに或(あるい)はかたく又は苦(にが)く咽(のんど)を通(とふり)りかねける
ゆへ薊(あざみ)を食(しよく)し試(こゝろ)むるに甚和(はなはだやわら)かに味(あしは)ひもむまし夫より
は日|毎(ごと)に旅行(りよこう)の路道(ろどう)にて薊(あざみ)を撰(へらみ)み取泊(とりとま)りへ持行(もちゆき)
食(しよく)しぬ予も虚弱(きよじやく)の生得(せうとく)なるに其地(そのち)に少(すこ)しは馴(なれ)ぬれ
はかゝる悪食(あくじき)にも不思儀(ふしぎ)に無難(ぶなん)なりし今にてさへ如此