翻刻
成(なり)ぬれは彼(かの)きゝんの困窮(こんきう)を忽(たちま)ち忘(わすれ)しが如くにて
早農業(はやのうげう)に怠(おこた)り食類(しよくるい)の貯(たくはへ)をもさまで心にかけさる
もの多(おゝ)くなりぬ其故(そのゆへ)は飢饉(きゝん)の難(なん)に逢(あい)し人〻は年
月の移(うつ)るに随(したが)ひ死去(しにさ)り其後生(そのごむま)れしものはきゝんの時(とき)
のむかし語(がた)りを折(おり)にふれてはたま〳〵に聞事有(きくことあり)ても
よそ〳〵しく思ひなして左程心にかけずされば近年に
至(いた)りては卯年(うとし)のきゝんの苦患(くつう)を言(いゝ)出す人もなければ
今時(いまどき)の年若(としわか)き者(もの)は夢(ゆめ)にも知らず如此(かくのごとく)にて過行(すきゆき)
世(よ)の中に彼凶年(かのきよねん)きゝんの備(そなへ)にとて穀物(こくもつ)を貯(たくは)へおくべき
事を諭(さと)し教(おしへ)え農業(のうげう)を進(すゝ)め怠(おこた)りを禁(きん)じる人|少(すくな)ければ
年月(ねんげつ)の過行(すきゆく)に随(したが)ひ油断(ゆだん)にのみなれり此有様(このありさま)にては
又もや凶作飢饉(きよさくきゝん)たらん時(とき)には何(なに)として命(いのち)をつなぎ
いかにして親兄弟(おやけうだい)を餓(うや)さず妻子(さいし)をはごくむべきや
食物(しよくもつ)なくて外(ほか)に命(めい)を保(たもつ)ツ術(じゆつ)なければ兼(かね)てよりこの
食物(しよくもつ)を貯(たくはへ)て凶年(きよねん)に備(そな)へべき事用心(ことようじん)の第(だい)一と知(し)る
べし抑此用心(そも〳〵このようじん)と言(いふ)は米穀(べいこく)の類(るい)はいふに及(およ)ばず