翻刻
燃出(もへいで)て猛火散乱(もうくわさんらん)して天に騰(のぼ)り八日|未(ひつじ)の刻(こく)に
至(いたつ)て利根川(とねがわ)の水上(みなかみ)に洋溢(やうゑき)し大地(だいぢ)一|面(めん)に漲(みなき)り流(ながれ)
て近国(きんごく)の諸村(しよそん)を漂没(ひやうぼつ)し山林樹木(さんりんじゆもく)をおしたおし
民家(みんか)を破倒(はめつ)す人民及牛馬鳥獣魚鼈(じんみんおよびぎうばてうじうぎよべい)の類(るい)こと
ごとく死亡(しぼう)せり凡泥中(およそでいちう)に埋没(うづみぼつ)して漂死(ひやうし)する者(もの)
四萬余人程(しまんよにんほど)となん六日七日より九日に至(いたつ)て浅間山(あさまやま)
より十|里四方天曇(りよほうてんくも)りて日光(にちこう)を見ず白灰降(しらはいふる)こと
雪(ゆき)のごとし人家及山林竹木(しんかおよひさんりんちくぼく)みな白し昼夜大地(ちうやだいじ)
鳴動(めいどう)する事数十度也此時横死(ことすじうどなりこのときわうし)する老若男(らうにやくなん)
女(によ)の亡霊毎夜利根川(ぼうれいまいよとねがわ)の水辺(すいへん)に現(げん)じて親(おや)は
子を尋(たづね)て泣子(なきこ)は親(おや)をしたふて叫(さけ)ぶ声哀(こへあわ)れなり
し形勢成(げうぜいなり)しが貴僧高僧集会(きそうこうそうしゆうくわい)し念佛唱題(ねんぶつせうだい)
誦経陀羅尼種〻(どくきやうだらにしゆ〳〵)の回向(へこう)をなしければ亡魂忽(ぼうこんたちま)ち
離苦得楽(りくとくらく)の解脱(げたつ)を得(へ)しにや自分怪異(じふんくわいい)は止(や)ん
で天涯望郷(てんかいもふごう)の鬼(きゝ)哭の声(こえ)と聞(きゝ)しも松風颯〻(まつかぜさつ〳〵)
の声(こへ)に和(くわ)して跡白浪(あとしらなみ)となりにけり